第15話
「発火」
ナナたちはウェインライト侯爵の馬車に随伴し、ウェストミンスターの演説会場へ向かっている。雨が降る通りを往く人々は、馬車の車列を見上げては、何事かと足を止めている次第だった。無理もない。ウェインライト侯爵の護衛はナナたち〈協会〉のメイドのみならず、軍の兵士でさえも動員されているのである。こうして侯爵が移動するだけでも、護衛についた馬車の数は合計十三台にものぼり、まさに厳戒態勢だ。
ナナの乗る馬車は侯爵の馬車の真後ろへ陣取っている。一方、フロスト姉妹ら〈銃殺大隊(ガンスモーク・バタリオン)〉のメイドたちは前衛の車列を固めている。
「ナナさん、通りをよく見て」
鈴の鳴るようなルルの声に、ナナは「はいっ!」と頷いて指示に従う。雨足が強まりつつある通りには、見たこともないほど多くの人々が行き交っている。ここはファルテシアの誇る王都なのだ。フランス南部の田舎育ちであるナナにとって、すべてが新鮮な景色に相違なかったが、いまは任務に集中しなければならない。
「怪しい者がいたら、すぐに知らせてくださいね。敵は我々の行動を逐一観察しているはずですから」
「はいっ!」
ナナたち〈仮ライセンス〉保持者を侯爵の警護につける際、アヴリルは何とルルを随伴させていたのだった。〈仮ライセンス〉保持者が単独で実地の任務を受け持つことは、原則として許されない。必ず〈コミュニア〉の資格を持ったメイドが監督役につくのが常であった。そんななかでも、さすがに〈エスパティエ〉のメイドが監督役というのは異例中の異例だった。最強のメイド集団である〈フォルセティ〉のメンバーであるルルが監督役ともなれば、その異例ぶりに拍車がかかろうというものだ。
「演説会場へ着いたら、侯爵の周りは私とフィオナ、フローラが固めます。ナナさんたちは会場の周囲を警戒してください」
「わかりました!」
ルルの指示に、馬車へ同乗しているナナ、リサ、リンは揃って頷いた。
さて、アヴリルから侯爵の身の回りの世話を託されたナナたちだったが、しかし侯爵の馬車への同乗は許されなかった。ルルやフロスト姉妹ですら、である。侯爵は〈協会〉から派遣されてきたメイドを信用などしていなかったからだ。彼は屈強な私設の護衛部隊を引き連れて、信頼する執事たちのみをそばに起き、身の回りの世話を任せていた。当代最高峰のメイドであるルルでさえ、彼には軽くあしらわれたのだった。ともあれ、そのおかげでナナたちは侯爵の晩餐で下げられた皿——いずれもルルが手ずから作った絶品である——に昨晩ありつくことができたのだったが。
「それにしてもルルさんの料理、おいしかったなぁ……また食べたいなぁ……」
「ちょっとあんた、任務中でしょ!」
ナナの一言を、リサがぴしゃりと窘(たしな)める。
「うふふ、ありがとう。でもね、ノフィは私たち〈フォルセティ〉のなかでもいちばん料理が得意なの。あの子の作るシチューは絶品だから、こんど食べさせてあげるわね」
ルルは柔和な微笑みを浮かべ、ナナの言葉に応えて言った。そう、〈フォルセティ〉のメンバーであるノフィーナ・デ・タルトは、当代随一の料理の腕を誇る〈エスパティエ〉なのである。
「本当ですか!? やったぁ! 楽しみだなぁ……」
子どものようにはしゃぐナナの様子を見て、リサは深々とした溜息をつき、リンはやれやれと肩をすくめるジェスチャーをした。
「シャルロットさん、ナナを甘やかさない方がいいです。彼女は甘やかすとつけ上がりますから」
「ちょっとリンちゃん、ひどいよぉ!」
「あらあら、うふふ」
ナナたちのやり取りを、まるで女神のような優しげな笑みを浮かべ、ルルは眺めているのだった。
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「……後ろの馬車がやかましいな」
ロバート・ナサニエル・ウェインライト侯爵は、箱形馬車(キャリッジ)の後方から聞こえる少女たちの声に顔をしかめる。彼にとっては、それがナナたちの声であることなど知る由もない。ウェインライト侯は端(はな)から〈協会〉が送り込んできたメイドのことなど信用していなかったし、そばに近寄らせることもしなかった。ルルの料理にさえ手をつけなかったほどだった。だから後ろの馬車にどのメイドが乗っているかなど、関心もない。
「いかがされますか、車列から外させますか」
侯爵の向かい側に座る老齢の執事(バトラー)が、即座に応えた。
「構わん。放っておけ——しかし〈円卓(サーカス)〉の連中は何だ。護衛の女中(メイド)など寄越しおって」
「体の良い監視役かと……あなた様の動向を逐次監視し報告しているのです。護衛というのは名ばかりかと思われます」
「フンッ。護衛なら既に間に合っておる。こちらは腕利きの退役軍人を執事(バトラー)衆としてごまんと揃えておるのだ。細腕の女中(メイド)が来たところで、ものの数には入らんというのに」
「しかし、〈フォルセティ〉に〈銃殺大隊(ガンスモーク・バタリオン)〉。よくぞあれだけ揃えられたものです。裏では〈円卓(サーカス)〉の〈ハート〉様を通じ、レディントン侯の次女も動いていたとか」
「〈協会〉の女狐か……」
アヴリルについてウェインライト侯爵はそう言って、
「やつの顔を思い浮かべるだけでも反吐が出る。実に忌々しい」
と切って捨てる。
「それに〈ハート〉のやつも信用ならん。レディントンともども、やつらは軍の情報部閥……海軍閥の我々とはもとより水と油の間柄だ。こそこそと奸計(かんけい)を巡らせて動き回るやつらには、現役の頃、散々煮え湯を飲まされてきたわい」
「大ドイツと情報部の連中、侯爵様はどちらがお嫌いですかな?」
老齢の執事(バトラー)は冗談めかした調子で水を向ける。
「どちらも嫌いだ。大嫌いだ。もっとも、殴って黙らせることのできる大ドイツの方がよほどましだという考え方もできるがな」
「言い得て妙でございます」
侯爵を乗せた馬車は、護衛の車列とともに、ウェストミンスター寺院に向かい走り続ける。
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「なぁ、〈エース〉。あの広場丸ごと吹っ飛ばしちまっても構わねぇかなぁ」
ウェストミンスター寺院を臨む建物の屋根の上——雨が降り注ぐなか、双眼鏡を覗く少女が舌なめずりをしながら呟いた。彼女の風貌は目深にかぶったフードで覆われ判然としないが、目元を濃く覆う隈(くま)が、妙に陰気な印象を抱かせる。
「駄目だ〈シックス〉。今日は発破はお預けだよ。侯爵まで吹っ飛ばしちまったら意味ねぇだろが」
背後に控える少女は、そう言って〈シックス〉と呼んだ少女を窘(たしな)める。
「作戦の目的は威力偵察を兼ねた扇動へのお膳立て……適当に暴れてこいって言われたはず……」
続いて発言したのは、〈シックス〉なる隈だらけの少女から双眼鏡を借り受けた少女だった。とても背の高い少女だった。身の丈は——低く見積もっても一八〇センチ、いや一九〇センチはあるだろうか。彼女も彼女で、目深にかぶったフードでその風貌は判然としない。しかし、長く垂れた黒い前髪が目立っている。
「〈ファイブ〉は理解が早くて助かるよ。お前、〈シックス〉と違って賢いもんな」
「あぁ? 何だよ〈エース〉、喧嘩売ってんのかぁてめぇ?」
隈だらけの少女——〈シックス〉が凄味を利かせる。
「お? やるか? 三分くらいなら持ちこたえてやんぜ?」
「負けること前提かよ……。お前喧嘩弱いもんな」
そう言われた〈エース〉はキシシと笑う。彼女の顔も、フードに覆われ判然としない。
「あぁそうさ。俺は喧嘩弱いからな……殴り合いで勝てなきゃ、頭使って敵の足下掬(すく)うだけよ……」
そして、双眼鏡を受け取った〈エース〉は眼下の通りを眺めながらにやりと笑う。ウェインライト侯爵を乗せた馬車がウェストミンスター寺院前の広場までやってきたのだ。
「そら、VIP様の到着だ。丁重にもてなして差し上げろ」
「了解!」
「了解……」
そうしたいらえを残し、〈ファイブ〉と〈シックス〉の二人は雑踏に消える。残された〈エース〉の姿は——もうどこにも見えなかった。
~~~
『我が国の繁栄は、決して脅かされてはならない! この先幾十年、幾百年経とうとも決してだ! 我が国の繁栄は未来永劫、堅持されなければならないものだ! 誰とて脅かすことなど許されぬものだ!』
壇上から、ウェインライト侯爵が胴間声を張り上げる。
『この国の繁栄を担うのは誰だ! 他でもない君たち市井(しせい)の民が担っているのだ! 畑を耕し、商売や貿易で富をなし、税を納め、徴兵に応じ、国を強くしているのは君たちだ!』
さすがは元海軍提督の貴族院議員。その声は自信に満ちあふれ、自らの言説の正しさを信じて疑わないという雰囲気に満ちあふれていた。
『そして君たち民の盾となっているのは誰だ? 他でもない兵たちだ! 軍に属する兵士たちだ! 彼ら精強な兵たちが日夜この国を守っているからこそ、君たち民は安寧を享受できている! そして君たちの安寧はいままさに、外敵の明白な悪意によって危機に瀕していることを自覚せねばならない!』
通りの人々が、徐々に足を止めて侯爵の演説に聴き入りつつあった。聴衆の数はみるみるうちに増えてゆき、もはや一塊の群衆といった様相を呈している。
そんな雑踏のなかを掻き分けて、ナナたちは周囲に怪しい人影がないかを走査していた。ルルやフロスト姉妹らは侯爵のそばを固め、警護の体勢についている。
「それにしてもあの侯爵さん、みなぎる自信が服を着て歩いているような御仁です」
ナナと一緒に周囲を警戒していたリンが言った。
「まるで父権社会の権化みたいな人ね……。メイドのことを〈女中〉だなんて前時代的な呼び方をして、見下してるし」
リサがその意見に同調した。
「海軍は父権社会の最たるものです。一隻の軍艦という閉鎖環境のなかで、「父や長兄の言うことは絶対」といった疑似家族を形成するのですから、その頂点に立ったこともある侯爵は、さしずめ家長のなかの家長といった趣でしょう。大家長です」
難しいことはナナにはよくわからなかったが、しかし、ルルをないがしろにされたことは少々腹に据えかねているといった次第で、侯爵のことをよく思わないという意見には同意だった。
『この国の繁栄にあって、最も肝心なものは兵力だ! しかし大ドイツの連中が我々に突きつけてきたものは何だ? 兵力の削減だ! 大陸からの撤兵だ! そして三割の軍艦の削減だ! 馬鹿げている! しかし大ドイツの馬鹿げた要求を、いままさに我が国は呑もうとしているのだ! そんなものを呑むことで結ばれた講和など、侵略の容認に他ならない! 到底許されることではありえない!』
と、ナナの視線が群衆のなかに気になるものを捉えている。
雨具状のフードつきコートを目深にかぶった二人組。ひとりは背が低く、もうひとりは驚くほど背が高い。雑多な人々がひしめく広場のなかでも、とりわけ目立つ。
『この際だからはっきりと言う! 大ドイツの者どもはクズであると! 我が国の繁栄に挑戦状を叩きつける、侵略者であると! 我が国の繁栄は不可侵のものであると、いまこそ卑劣な大ドイツの者どもにはっきり言ってやらねばならないのだ!』
「そうかい! なら死にな!」
侯爵の演説へ割って入るようにして、女の声が轟き渡る。それがフードを被った二人組のうち、背の低い方の人物から発せられた声音であることにナナは気づいた。
何だ何だとざわつきはじめる群衆たち、中断された演説、そしてスローモーションもかくやという視界のなか、ナナは見た。フードを取り払った人物が、中空に何か投擲するのを。
「こいつが〈ベルリン〉からのメッセージだ!」
爆発——であった。それほど大きな爆発ではない。しかし、群衆を混乱に陥れるには充分な炸裂だった。悲鳴を上げた人々が逃げ惑う。広場は瞬く間に大混乱へと陥った。
「リンちゃん、リサちゃん、ついてきて!」
ナナは駈けた。群衆の隙間を縫い、ただ目標と定めた敵めがけて走り抜ける。あのフードの二人組を何としても取り押さえなくてはならない。この大混乱だ。侯爵のそばにいるルルやフロスト姉妹の到着を待ってはいられない。自分たちで何とか時間を稼がなくてはならない状況だった。時間さえ稼げれば、ルルたちの加勢も期待できる。逆にあの二人組のテロリストをみすみす逃がすのは、何としても避けねばならなかった。
剣を抜き、ナナは跳んだ。
空中で錐揉(きりも)み状に回転しつつ、振りかぶった剣の一撃を喰らわせる。まず初撃。爆弾を放り投げた敵を奇襲する。そして返す刀で身長の高い方の敵へ攻撃を喰らわせ、後から追いついてきたリンとリサで追撃する。別働隊のニコル、エリザベート、カエデ、ユスティーナらが合流すれば、包囲攻撃も可能になる。そのはずであった——。
「うおっと、あぶね」
弾かれた——そう思った刹那、腹を思い切り蹴り込まれて吹き飛ばされる。石畳の地面を何度も転がって擦り傷を作り、ナナはようやく立ち上がった。
「ほぉ、根性あんじゃん。チビ助のくせに」
眼前の敵は抜き放った短剣を掲げて笑っていた。あの爆弾を投げた敵だ。犬のような乱杭歯、そして目元を縁取る黒々とした隈が、何とも不気味な印象を抱かせる女だった。
「チビ助……言うなっ……!」
全身が軋みを上げるのに耐えつつ、ナナは再度剣を構えて敵を睨む。蹴られた衝撃で武器を取り落としていないのは僥倖だった。まだ、戦える。少なくとも、ルルたちがくるまでの時間を稼がなくては。
「いいねぇ、根性あるやつはガキだろうが何だろうが大好きだよ。喧嘩のしがいがあるからな」
そして——遅れてやってきたリンとリサが武器を手に敵二人へ躍りかかる。だが。
「……邪魔」
背の高いフードの女が、ブンと腕を一振りし、リンとリサを二人まとめて吹き飛ばす。頭や背中を地面でしたたかに打ったふたりは、苦悶の声を上げて倒れ伏した。再び立ち上がる気力さえないらしい。もはや彼女たちは戦闘不能だ。
「相変わらずの馬鹿力だな〈ファイブ〉は。ガキ相手に本気出すなよ。死んじまうだろうが」
「〈シックス〉こそ……じわじわと飯給(いたぶ)って殺す癖は直したほうが良い……敵は叩けるときに一気に叩く……戦(いくさ)の基本……」
訥々(とつとつ)とした口調で喋る背の高い女は、被っていたフードを取り払う。血の気のない白い顔を、だらりと長く垂れ下がった、黒い前髪が覆っている。腰のあたりまで伸びた髪は水気がなく、まるで獣のたてがみのような風情だった。
「爆弾は大好きだが、喰らわせた相手が断末魔も上げずに死んじまうのがチト惜しい。その点殴り合いは相手の悲鳴が聞けて最高だ。お前にはわからんかもしれんがな」
「あんたの趣味はわからない……でも、火薬使いの腕は、頼もしい……」
「へへっ、当たり前だ。アタシを誰だと思ってる。喧嘩と花火(ハッパ)が大好物の〈シックス〉サマだぜ」
そう言うなり、〈シックス〉と呼ばれた目に隈のある女は背後に向けて何やら黒い丸薬状のものをバラ撒いた。次の瞬間、めくるめく炸裂が〈シックス〉の背後で迸る。敵の死角から急襲を仕掛けようとしたニコルたち別働隊を足止めするための牽制だ。殺傷力のあるような爆発ではなく、威嚇目的での小規模な爆発にすぎなかったが、相手に恐怖心を植え付け、足を止めさせるには充分なものだ。
「何だ、〈仮ライセンス〉持ちのガキだけじゃねぇか」
〈シックス〉はぎろりと背後のニコルやエリザベートたちを睨み据える。彼女たちは案の定怖じ気づき、武器を構えたまま棒立ちになって固まっていた。
「ルル・ラ・シャルロットはどうした? 怖じ気づいて逃げ出したか? ははっ、〈フォルセティ〉の名が泣くぜぇ?」
「シャルロットさんを……馬鹿に、するな……」
ナナは怒りに震え、そして叫ぶ。
「シャルロットさんを、馬鹿に、するな!!!」
踏み出し、駈ける。敵を無力化するためだけに、ただひたすら一直線に。
「うぉああああああああああああッ!!!!」
持てる全力を振り絞った剣の一撃を、真正面から浴びせかける。二の太刀は考えない、一撃必殺に重きを置いた攻撃だった。
「馬鹿……ッ! 挑発に乗るな……!」
倒れたリサが大声を上げる。しかしナナの耳には届かない。
「いいねぇ、根性もあるし威勢もある。あんた大好きだよ。ブッ潰してやる」
〈シックス〉は短剣を捨てて構えを取る。見たこともない構えだった。
「ガキンチョ程度を倒すのに、こんな武器なんて、いらねぇ!」
瞬きする間に武器を奪われ、捨てられ、殴られ、蹴られ、そしてまた殴られて蹴られて投げ捨てられる。甚大なダメージを負ったナナは、背中から石畳へ叩きつけられて動かなくなった。
「ノロいんだよ、雑ァーーーーーー魚!」
降り注ぐ雨が、ナナの顔を叩いている。しかし彼女は起き上がらない。起き上がれないほどのダメージを連続して、しかもほぼ一瞬のうちに喰らったのだ。
「秘宗拳(ひそうけん)……!」
地面に這いつくばりつつ、清(中国)出身のリンが驚きに目を見開く。
「擒拿術(きんだじゅつ)……! 私の祖国以外に、使い手がいるだなんて……」
「はぁ、はぁ……リン、知っているの……?」
息も絶え絶えなリサが問うと、リンはやっとの思いで頷いた。
「ええ……秘宗拳(ひそうけん)……祖国の河北地方に伝わる拳法の流派です……擒拿術(きんだじゅつ)とは、敵の経穴や関節のみを狙い澄ましたかのように叩く技……あれを喰らったナナさんが、立ち上がれるとは、思えません……あいつ、かなり強い……」
「〈仮ライセンス〉持ちのガキじゃこんなもんか……。締まらねぇ」
コキコキと首を鳴らしながら〈シックス〉が言う。
「んじゃま、雑魚はとっとと死んどこーか」
〈シックス〉は倒れたナナの顎先に踵を添える。踏みつけて首を折るつもりなのだ。
「ナナちゃん!!!」
ニコルの悲壮な叫び声がこだまする。そして——。
「させません————!」
一陣の風が吹いたかと、周囲の誰もが錯覚した。衝撃音とともに〈シックス〉の身体が宙を舞い、高々と浮かび上がったかと思うと、その場に悲鳴を残し、広場のそばに建つ家の窓をブチ破って消える。唖然とする人々のただ中に、ルル・ラ・シャルロットが凜然と剣を構えて立っていた。
「シャルロット……さん……」
「ルルでいいわ。ナナさん」
息も絶え絶えなナナの手を取り、ルルはにっこりと微笑んで言う。
「ごめんなさいね、到着が遅れてしまったわ——でも、もう安心して。帰ったら怪我の手当をしましょう」
そしてルルは立ち上がって再び剣を構え、眼前の敵めがけ誰何(すいか)する。
「侯爵の命を狙う大ドイツの工作員とは、あなたがたですか」
「……そう、とでも言っておこうかな……」
背の高い、〈ファイブ〉と呼ばれた女がうっそりと応える。
「あなたを拘束いたします。お話の続きは、ロンドン塔で伺いましょう——!」
~~~
「っ痛ぇーーーーーーー。あの女(アマ)、峰打ちで済ませやがった……舐めやがってクソがッ!!!」
窓ガラスが散乱した民家のなかで〈シックス〉が呻く。その顔を覗き込みながら、どこからともなく現れた〈エース〉が、にまりと笑った。
「それにしてもひどい顔だ。まぁ、あんたは元々ひどい顔だけれどね」
「〈傷持ち(スカーフェイス)〉のあんたに言われたかねぇよ……あのルルとかいうメイド、やっぱ強ぇな」
「そりゃそうだ。モミジを除けば王国最強のメイドだぞ。お前たちが勝てる相手じゃ到底ない。俺ならものの二秒であの世行きだ」
「言ってろ〈エース〉。いまから下に降りる。ひと泡吹かせてやらにゃ気が済まねぇ!」
「発破は使うなよ。船で持ち込めた火薬の量も限られているんだ。無駄遣いは、このあとの作戦に差し障る」
「わぁってるよ! アタシにはこの手(テイ)って武器があっからな。せいぜい身体ひとつで頑張るさ——それに、あんたがくれた奥の手もある」
「その意気だ〈シックス〉。だが深追いはするな。目的はあくまでも威力偵察。程々に敵の戦力を削いだら、さっさと切り上げて帰投しろ」
〈エース〉は〈シックス〉の顎を撫でる。すると〈シックス〉は一転して、あやされた猫のように目を細める。
「おっと、俺はそろそろ行かなくちゃならない。追っ手がすぐそこまで迫ってるからな——〈賭場(テーブル)〉が開かれたら、また会おう」
〈エース〉の姿が掻き消える。そして〈シックス〉は立ち上がると拳を握った。
「あのルルとかいうクソ女(アマ)……〈ファイブ〉を傷モンにしたら容赦しねぇ。ボコボコにブン殴ってわからせてやる!」
~~~
一方の〈フォルセティ〉——シエナ、ノフィ、マリエールの三名は、広場周辺で逃げる何者かを追跡していた。なぜ彼女たちは侯爵の警護についていなかったのか。これにはアヴリルの計略があった。
彼女曰く、「この話には何かしらの裏がある」とのことだった。〈円卓(サーカス)〉の〈ハート〉は侯爵の暗殺計画について情報源を明かさなかった。情報の確度を問われる場面において、根拠を一切明示しなかったのだ。
「確かにあれは情報源の保護という意味合いもあるだろうし、軍情報部と近しい彼であれば、我々〈メイド協会〉に開示できない情報を持っていることもあり得るだろう。不自然な点は何もない。だがしかし、私の勘が告げているのだ……〈ハート〉を一切信用するな、と」
アヴリルは〈フォルセティ〉の面々に対し、そのように言ったものだった。
そしてアヴリルは、侯爵の身辺警護を〈仮ライセンス〉持ちのメイド学科生とルルに任せ、シエナ、ノフィ、マリエールの三名には侯爵の周囲に不審な者がいないか探索するよう命じたのだった。
暗殺の実行犯がいるとすれば、司令塔の役割を担う者が周囲の状況に目を配っているはずだ。そうした司令塔を捕らえることができれば、事態の全貌を把握することが可能であるとの判断だった。もしかしたら、ハートの不審な言動に繋がる情報が掴めるかもしれない。
その話を聞いたルルは、アヴリルに問うたものだった。
「先生は、あの〈ハート〉という者がこの暗殺計画の背後にいるというのですか?」
アヴリルは否定も肯定もしなかった。
「可能性のひとつとして考慮しているにすぎない。だが、可能性のひとつとして検討する価値は大いにある——」
そしてルルたちが襲撃者である〈ファイブ〉〈シックス〉の二名と交戦するさなか、シエナ、ノフィ、マリエはマントにフードを被った者を路地裏へ追い詰めている最中だった。その者こそが、演説会場で実行犯へ指示を送った司令塔役のはずだった。
「もう逃げ場はありません! 大人しく投降しなさい!」
マリエールが叫ぶ。そこは路地裏の袋小路——もはや逃げ場などない行き止まりであった。
「参ったなぁ……逃げ足の速さだけは自慢だったんだが」
敵はフードを被っている。その顔はマリエールたちの位置からはよく見えない。敵は後頭部を気まずそうに搔いている。追い詰められた緊張感など欠片もない様子だった。その様子に、マリエールたちはますます警戒を強める。逃げ場をなくし、追い詰められた敵ほど厄介なものは存在しない。どんな奥の手を隠しているかわかったものではないからだった。
「はいはい降参降参、これでいいか?」
敵はその場で跪(ひざまず)き、両手を頭の後ろに置いて、あっさりと投降の意を示した。
「フードを取りなさい」
「この姿勢じゃ手を動かせない。あんたたちがやってくれよ。ほら」
シエナ、ノフィ、マリエールは互いに顔を見合わせる。すると、「あたしがやる」とシエナが名乗りを上げた。
「妙な気を起こすなよ……」
そっと近づきつつ、シエナは手早く敵のボディチェックを済ませている。武器を隠し持っていないか、確認するためである。
「こいつ、こんなものを持ってやがった」
シエナは片手の指にリボルバー式拳銃の用心金を掛けながら言った。敵は懐に銃を隠し持っていたのだ。
「シエナ・フィナンシェ……王子様たる君の手で直に触れて貰えるとは光栄だな。その辺のメイドなら、鼻血を吹いて失神するところさ。もっとも、"俺"は違法営業の〈闇メイド〉なんだけどさ」
こいつ、いま"俺"といったか——シエナはそう思いつつ、妙な胸騒ぎを覚えている。そして顔を隠していた敵のフードを取り払った瞬間、嫌な予感は、現実のものとして顕現した。
「やぁ久しぶり、王立ファルテシア学園メイド学科、第一三三期生同期諸君! 会いたかったぜ?」
シエナ、ノフィ、マリエールは言葉を失う。そこにあったのが、死んだはずの同窓生の顔だったからだ。しかし、その顔貌は変わり果てたそれだった。
「アビー……」
シエナは震える声で、かつての同窓生の名前を呼んでいる。
「アビゲイル・アークライト……懐かしい名だ。でももう、俺の名じゃない」
かつて学舎でともにしのぎを削った仲間が、シエナ、ノフィ、マリエールの顔を順繰りに見て笑う。悪意に満ちた、歪みに歪みきった笑みだった。その顔には失明した右目から頬にかけて縦へ真一文字に刻まれた傷がある——まるで数字の〈1〉を象ったかのような、いびつな傷だ。
「公的記録では大ドイツ国境地帯であるストラスブールへ派兵中に戦死となっているはず——なぜ生きている? そんな顔をしているな」
アビゲイル・アークライトこと〈エース〉は、笑みの表情を一層に深める。
「アルザスの森で俺は死んで、そして生まれ変わったんだ。この顔の傷とともにな。改めまして、俺の名は〈1(エース)〉。大ドイツの走狗たる裏切り者——とでも、いまは言っておけばいいのかな?」
不意を突くようにして、〈エース〉は拡げた手のひらをシエナに突き出す。同時に袖口から発条(ばね)仕掛けのナイフが射出され、シエナの肩口めがけて突き刺さった。暗器をつかった奇襲攻撃だ。
飛び散る鮮血とともに苦悶の表情を浮かべるシエナ。その隙に、〈エース〉は膝の力のみを使って跳ねた。驚くべきジャンプ力であった。
「俺、あんたらと違って喧嘩弱いからさ」
〈エース〉が言う。
「卑怯な手、遠慮なく使わせてもらうよ!」
ジャンプと同時にシエナの鼻先を爪先で蹴り、その顔を踏み台にして更に跳ぶ。そして〈エース〉は、石畳の地面めがけて何かを放った。煙幕玉であった。だが、それはただの煙幕玉などではありえなかった。
「吸い込むな! 息を止めろ! この煙、毒性があるッ!」
シエナが叫ぶ。彼女は既に吐血していた。煙とともに漏出した毒をもろに吸い込んでしまったのだ。
「あっははははははははははは! 傑作傑作ぅ! さしもの〈フォルセティ〉も毒喰えば死ぬだろ」
その場にシエナが膝をつく。煙幕のなかで咳き込む彼女の足下に、恐ろしい勢いで血だまりが生成されつつあった。吐血が止まらなくなっているのだ。
「シエナ!」
「ノフィ! 近づくな……近づいたらブン殴るぞ……!」
「駄目! シエナが死んじゃう……!」
「はははははははははっ! 苦しめ苦しめぇ! 大ドイツの捕虜になった俺は、もっと苦しい思いを味わったぞ。思い知れ〈フォルセティ〉!」
と、建物の三階部分に取りつき哄笑を続けている〈エース〉の頭上に、ぬっと影が差し込んだ。次の瞬間、胸ぐらを掴まれ、屋根の上に引き上げられるや思い切り背中を叩きつけられる。柔術の要領の投げ技であった。
「痛ぇ! 何しやがるマリエール!」
「……あまり調子に乗らないでくださいます?」
張り手一発。〈エース〉の意識が吹き飛びかける。
「毒使いが解毒剤を携帯していないわけがないですよね? 出しなさい! いますぐに! 急げ(ハリー)!」
「あっははははは……、その顔怖ぇ。超ウケる」
もう一発、全力の張り手。今度は〈エース〉の意識が完全に飛ぶ。マリエールはすぐさま〈エース〉の着ていたコートの内ポケットを探りにかかる。
大ドイツ陸軍の徽章——舌打ちしつつ、証拠品として押収する。
半分に欠けたパン——舌打ちしつつ、放り捨てる。
折りたたまれた広場周辺の地図——舌打ちしつつ、押収する。
薄汚れたトランプのカード、図柄は〈エース〉——舌打ちしつつ、放り捨てる。
そして小瓶に詰められたいくつかの丸薬——握り締めて、階下の路地めがけて大声で叫ぶ。
「ノフィ! 解毒剤よ! 受け取りなさい!」
マリエールの手から放り投げられた小瓶をノフィは器用にキャッチして、すぐさまシエナのもとに駆け寄っている。解毒剤を与えたとしても、予断は許さない。すぐさま医者のもとへ運ばなければ——そう思いつつ、奇襲攻撃を避けられなかった自分の甘さにマリエールは歯噛みした。すぐさまシエナのサポートに回ることだって、普段の自分であればできたはずだ。普段の冷静な自分ならば、だ。
まさか、あのアビゲイルが生きていただなんて……。生きていたばかりか、あのアビゲイルが〈闇メイド〉になったというのはどういうこと? まさか大ドイツに寝返った? あの軍属メイドきっての秀才が? 普段は冷静沈着そのものであるはずのマリエールの思考は、行き着く先のない迷走を続ける。
意表を突かれ、呆けた一瞬の隙を突かれてしまい、そしてシエナに重篤なダメージを与えてしまった……。これは完全に自分のミスだと、迷走の果てにマリエールの思考は一巡した。
「畜生ッ!(Zut!)」
いつもなら使うはずもない、下卑た母国の言葉を反射的にとはいえ発した自分を、マリエールはしばし恥じた。
~~~
「あいつ……姉様を、姉様を……ッ!」
〈フロスト・“ザ・ミラー”・シスターズ〉。その片割れたるフローラ・フロストが、怒気も顕わに叫んでいた。「畜生ッ!(Damn it!!)」と。
広場の煙幕は徐々に晴れ、倒れて意識を失った姉——フィオナを抱きかかえるフローラは、傍らに立つルル・ラ・シャルロットを憎悪も顕わに睨みつける。
「あんたがデカブツに気を取られてる隙に、姉様は——!」
「……面目ありません。私の油断です。あの〈シックス〉という敵相手ならば、あなたがた姉妹だけで制圧できる……手負いの相手であれば制圧できる……。そう判断してしまった、私のミスです」
傷ひとつなく屹然と広場に立つルルは、そう言ってフローラに謝罪した。
このひとたちは、一体何を言っているのだろうか——ニコルやリサ、エリザベートは、もはや瓦礫の山と化した広場の隅に立ちすくみ、そう思った。
あの〈ファイブ〉、そして〈シックス〉なる怪物相手に甚大なダメージを与えられた。たとえ煙幕に紛れ取り逃がしてしまったのだとしても、充分すぎる戦果じゃないか。そう思ったからだった。あの強敵二人——〈フロスト・“ザ・ミラー”・シスターズ〉でさえ圧倒するほどの二人に対し、ルルは鬼神のごとき戦いぶりで押し返してみせたのだ。しかし——。
「私ら姉妹を弱者と誹(そし)り侮辱するかッ! 〈フォルセティ〉だからといっていい気になるなよ、〈エスパティエ〉のクソ野郎がッ!」
怒りに震えるフローラは立ち上がりざまに銃を抜き、その照準をルルに向けた状態で構えている。すべてを破壊し尽くす、あの銀の回転式拳銃(リボルバー)だ。
「やめろフローラ! 銃を下ろせ」
と、そこで馬の嘶(いなな)きとともに声が聞こえた。アヴリルの声であった。
「味方同士で争って何になる」
ノーラ、そしてペネロペらとともに馬車から降りたアヴリルは、怒りに震えるフローラの背後まで足早に近づき、銃を下ろすよう促した。
「侯爵は」
「身柄を安全な場所に移しています」
「損害は」
「軽微です。フィオナが重傷。学科生三名が軽傷。その他味方に損耗ありません。フィオナは毒を受けています——これは私のミス……」
「言うなルル。学科生の前だぞ。お前の威厳を損なわせたくない」
アヴリルは有無をいわさぬ口調で、ルルへ近づき耳打ちする。
「はい……」
アヴリルは倒れたフィオナの前まで歩み寄ると、その傍らにしゃがみ込んだ。容体を確認するためだ。
「シエナと同じか……。あいつも同じ毒にやられたそうだ」
その瞬間、ルルの顔からさっと血の気が引いていった。
「案ずるな。既に容体は安定している。やつにもこれを飲ませたから、心配はいらん」
アヴリルは小瓶に入った丸薬をフィオナの口に含ませ、水筒の水で流し込ませた。
「敵の姿を見たか」
「……二名。いずれも見たことのない顔でした」
「だろうな。〈闇メイド〉が動いている。〈協会〉情報部曰く、大陸から渡ってきた新手の〈闇メイド〉たちらしい。この様子だと、かなりの手練れと見るべきだな」
「彼女たちはそれぞれ〈ファイブ〉、〈シックス〉と名乗っていました」
「シエナたちが交戦したやつは、自ら〈エース〉と名乗っていたよ。その正体は、あのアビゲイル・アークライトだ。死んだ自分の教え子がテロリストとして帰ってきたなど、冗談としても笑えんがな」
「——! では……」
ルルは僅かに勢い込んでアヴリルに言う。
「わずかだが、点と線が繋がった。モミジをロンドンに呼べ。事案への対処を開始するぞ」