第1話
「彼女がメイドになった理由」
まずはじめに見えたのは、柔らかな暖炉の灯火だった。オレンジにゆらめく炎の色に、ぱちぱちと爆ぜる薪の音——「とても懐かしい光景だ」とナナ・ミシェーレは思い、やがて「ああ、これは夢か」と得心する。眠りにつくたび、これまで幾度となく見てきた夢だから、「またこの夢か」とも少し思った。だが、不思議と悪い気はしなかった。むしろ心地の良い気分がした。この夢を見るたび、「がんばらなくちゃ」と、いつも前向きな気持ちになれるからだ。
これは記憶の底に刻まれた、忘れえぬ出来事をなぞる夢に相違ない。まだナナが小さかった頃——〈学園〉の門をくぐる決断をする、遙か以前の出来事だ。
夢の中の彼女は、暖炉のぬくもりに包まれながら、本を読み聞かせてくれる祖母の声を聞いている。『小さなメイドのための小さな本』——幼い頃、何度も読み聞かせをねだった本だ。
戦争で両親を亡くした女の子が、メイド騎士団の長に拾われ、やがて立派な〈王宮メイド〉へと成長する物語。本のあらすじをまとめると、そういうふうになるけれど、馬を駆って大ドイツの兵と戦うメイドたちの勇ましさや、〈王宮〉におけるメイドたちの雅びやかな仕事ぶりに、彼女は目をきらきらと輝かせ、描写のひとつひとつに心をときめかせたものだった。
「ナナちゃんはほんとうにこの本が好きだねぇ。同じ本ばかりで飽きないのかい?」
読み聞かせを終えた祖母は、そう言って優しく微笑みかける。
「すき! メイドさんのおなはし、すき!」
「メイドさんになりたいのかい?」
そんな祖母の一言に、彼女はきょとんとした顔をする。
「メイドさんに、なる……?」
メイドさんになる、という言葉の意味を少しだけ考え、小さなナナ・ミシェーレは、命の恩人である〈あのメイドさん〉のことを考える。自分がメイドさんになる——? 絵本の中にある通り、メイドさんというのは才気に恵まれた選ばれし人のみが就ける職種であるから、なりたくてなれるものだとは思ってもいなかった。だからそんな可能性について、考えたこともなかったのだ。
「なれる……の? 『あのとき』のかっこいいお姉さんさんみたいに……?」
「なれるとも。いっぱい勉強しなくちゃならないけどね」
「なる! ナナ、メイドさんになる! 絶対なる!」
ナナは昂ぶる感情とともにそう言った。
それは、一種の宣誓といえた。
「そうかいそうかい、ナナちゃんならきっと立派なメイドさんになれるよ。でも、メイドさんは危ないお仕事だからねぇ。お父さんとお母さんはきっと反対するだろうね。もうちょっと大きくなったら、本当にメイドさんになりたいっていう気持ちを見せて、お父さんとお母さんを説得しなくちゃならないよ——」
~~~
目蓋を開くと、御者の背中が視界に入る。かぽ、かぽ、かぽ、かぽ、という蹄の音が等間隔に響き渡り、ひひん、という荷馬の嘶きがそれに続く。
どれくらい眠っていたのだろうか……。半刻か、それとも一刻あまりか。ぼんやりとした頭でナナ・ミシェーレは考え、馬車の荷台から身を起こす。少し寒いなと思い、上着を荷物の中から取り出して身に纏うと、吹きつける風の冷たさがいくばくか和らいだ。
幌の隙間から辺りの景色を伺うと、眠りこける前に見たはずの、崖が続く海岸線とは打って変わって、森の中を走る細い道を進んでいることが確認できた。目的地である王立ファルテシア学園は、ドーバーの港街から街道を南西へ進み深い森を越えたところにあるから、馬車は順調に進んでいることが見て取れる。故郷からの旅路はそれなりに長いものになったけれど、ゴールはもう、すぐそこにある。
それにしても霧が濃い。ブリテン諸島に国土を構えるファルテシア王国は霧と雨の多い土地だとは聞いていたが、これほどとは。書物や詩歌に曰く〈神々の吐息に包まれた王国〉である。ドーバーで海峡の連絡船を下り、港の宿で一泊し、こうして馬車に揺られて移動している今日まで、青空を拝んだことは一度としてなかったから、そうした表現が決して大袈裟ではなかったことが理解できる。
いまにも降り出しそうな曇天を見上げながら、ナナは寝ぼけた頭をゆっくりと巡らせ、先刻見た夢の内容を呼び覚ます。
生家の暖炉の温もりと、とても優しげな祖母の声——あれは「メイドになりたい」という気持ちを初めて抱いた夜の記憶に違いなく、そうした幼い頃の思い出は、いまも目蓋の裏に焼き付いており、ありありと思い出すことが可能だった。それこそ、幾度も夢に見るくらいに。
「本当に、なるんだ、メイドさんに……」
中空へかざした手をじっと見つめ、声に出す。メイドになるべく必死に勉学を重ね、両親を説得し、最難関である王立ファルテシア学園のメイド学科へ合格し、村の皆に見送られて故郷を旅立つ——これまでのそんな日々を思い起こし、メイドになるという夢の第一歩を掴んだいまの状況を噛み締めた。望みを叶えた喜びが半分、故郷を離れる寂しさが半分。そんな具合だった。
ナナがメイドに憧れを抱いたきっかけは、単純にして明快だった。幼い頃、ファルテシアの〈王宮メイド〉に命の危機を救われたから。それがゆえだ。そのとき出会った〈王宮メイド〉は美しく、凜々しく、清らかで、とても強かった。ナナは彼女のようなメイドになりたかった。だからこそ、「危険な仕事だ」と反対する両親を説き伏せてまで、王立ファルテシア学園のメイド育成課程へ進む道を選んだのだ。
「お嬢ちゃん、あの学校のメイド学科に行くのかい」
御者のおじさんが、ナナを振り返って言った。
「はい! メイドさんになるのが小さな頃からの夢なんです」
「そうかい、そうかい。お嬢ちゃんは賢いんだねぇ。あそこは王国の中でも最難関の学校だから、ヨーロッパ中から秀才が集まる。そこに入学する頭を持っているなんて、お嬢ちゃんはすごい人だ」
「いやあ、それほどでも……」
ナナはまんざらでもない調子だった。
「田舎はどこなんだい?」
「フランスです。すっごい田舎の方にある村なんですけど」
「へぇ、英語とっても上手だねぇ。勉強したのかい」
「いやー、全然、まだまだです。メイドさんは上流階級の英語(キングス・イングリッシュ)ができないといけないから、学校へ行ったらもっともっと勉強しないと……」
ナナが言うと、御者のおじさんは口髭を撫でながら言った。
「あの学校は頑張って勉強しないと放校になっちまうもんなぁ。俺はドーバーから学園まで多くの生徒さんを運んだが、落第して田舎へ帰る子も大勢いたよ。気の毒なくらい泣いている子も沢山いたさ」
ナナは自分が放校になって、学園からドーバーへ向かう馬車へ乗る様を想像し、少しだけ身を縮ませた。そんな様子を見て、「まぁ、そうならんように、頑張んな」と御者のおじさんは笑って言った。
すると、馬車が唐突に停止した。いきなりの急停車だったから、ナナの身体はがくんと前のめりになってしまう。御者のおじさんが、手綱を引いて馬の足を止めたのだ。何が何だかわからないナナをよそに、おじさんはひどく焦った調子だった。
「まずいな……ありゃ傭兵団の連中だ」
おじさんは舌打ちした。傭兵団——その言葉に、ナナは耳を疑った。
「こんなところで通せんぼしてるとは……」
深い霧の向こうから、男たちが馬に乗ってやってくるのが視認できた。その数は合計四人。おのおのが、腰に使い古した刀剣をぶら下げている。その目は、ナナたちの乗る馬車を真っ直ぐに見据えていた。文字通り、通りがかった獲物を品定めするような目つきだった。
傭兵団の連中は、有事の際は金で雇われて戦争をするが、大きな戦乱のない時分は盗賊まがいのことをして糊口を凌ぐ。荒くれ者や血の気の多い者も少なくなく、こうした通る者の少ない街道において、できれば行き逢いたくない存在に違いなかった。
「おい、誰の許可でここを通るか」
男たちの一人——細い目をした金髪の男が、よく通る声で言い放った。その視線に射すくめられながら、何て冷酷な目をした人なんだ、とナナは思った。突然の出来事に足がすくみ、ナナは固まったままその場から動けなくなっていた。
「見ての通りお客さんを運んでる最中でしてね、勘弁しちゃあ貰えませんか。道を塞がれちゃあ、こっちは商売上がったりだ」
「そうかよジジイ」
金髪の男の背後に控えた、色黒の男が御者のおじさんに向けて言い放った。男たちからは、何週間も洗っていない犬のような匂いがした。
「金だ、金よこせ。通行料だよ」
「あるだけ渡せ。そしたらここを通してやるよ」
色黒の男のそばにいる、でっぷりと肥った男が続けて言った。ナナは、恐る恐る男たちの顔色を伺った。誰も彼も、冷血漢を絵に描いたような顔をしていた。
「わかりましたよ。これでどうか……」
御者のおじさんが貨幣入れの袋を差し出すと、金髪の男はその中身を検め、「足りねぇな」となおも詰め寄ってきた。
「おい、荷台に積んでる女よこせ。ドーバーの売春窟で売りさばきゃ、ここの通行料に見合う額にはなるだろうがよ」
その言葉を聞いた瞬間、ナナは恐怖で頭が真っ白になった。足ががくがく震えだして止まらない。せっかく夢への第一歩を踏み出したというのに、こんなところで終わってしまうのか……それだけは絶対に嫌だ! そう思いつつも、両親と祖母の名を念じ、神に祈るくらいしかできなかった。ナナは己の無力さに打ちひしがれた。かつて自分の命を救ってくれた〈王宮メイド〉みたいに強ければ、こんな男たちなんか全員やっつけてやれるのに。そう思ったからだ。
「あと馬車曳いてる荷馬もよこせ。女と馬をよこしてくれりゃあ、命だけは助けてやる」
「待ってくれ、堪忍してくれ!」
「あ? なんだとジジィ」
金髪の男が得物を抜くと、湾曲した刀身がぎらりと光った。古代イベリアで使用されていた、ファルカタという武器を模した刀だ。
「この俺に口答えするか。いい度胸してやがる」
色黒の筋肉質な男に捕らえられ、ナナは馬車の荷台から引き下ろされた。「痛い、やめて!」と叫びを上げるが、男たちは被虐的な笑い声を洩らすのみだった。ナナは恐怖で身が凍りつかせ、子犬のように震えることしかできなかった。
「よく見りゃ随分な別嬪だ。まだガキには違いねぇですが、こいつは高く売れますぜ、ドニーの兄貴」
「思いがけねぇ収穫だな。丁重に買い主のもとへ送り届けてやらにゃ。傷ものにしたら随分と値段が下がっちまう」
「へい。心得てまさぁ」
「やめて……やめてよぉ……こんなの非道いよ、あんまりだよぉ……」
故郷の両親と祖母の顔、幼馴染みの友だちの顔が順繰りに浮かび、ナナは涙をぽろぽろとこぼして言った。何より、メイドになる夢がこんなところで理不尽に挫かれることが我慢ならなかった。圧倒的な暴力を前にして、抗う術を一切持たない自分自身の無力さそのものも悔しかった。メイドとして訓練を受けていたならば、こんな男たちなど恐るるに足らないというのに……。
「やめろ、その子を離せ……! まだ子どもじゃないか!」
下卑たやり取りを交わす傭兵団の男たちへ、御者のおじさんが言った。すると、「ドニーの兄貴」と呼ばれていた金髪の男が、ぎろりと鋭い視線をおじさんに向けた。
「あ? 何だジジイ」
「その子を離してくれと言ったんだ!」
金髪の男は舌打ちをして頭を掻いた。
「ったく、つべこべとめんどくせぇジジイだぜ……。てめぇを殺して馬と女をいただくわ。それがいちばん手っ取り早そうだからな」
「その金で我慢してくれ! 頼む! この通りだ!」
振りかざされた刀身がぎらりと光る。と、次の瞬間。男の握る剣が明後日の方角めがけて飛んでいった。剣は中空をくるくると舞い、さかさまに落下して地面へ一直線に突き刺さった。
「え?」
金髪の男が、呆けたような声を出す。次いで、ひゅん、という音とともに、男の跨がる馬の尻へ棒状のものが突き刺さった。それが弓から放たれた矢であると他の男たちが理解するより前に、痛みで暴れ出した馬に振り落とされた男は、「あっ!」という間抜けな一声を発して馬から落ち、地面でしたたかに頭を打った。男の握る剣の刀身、そして馬の臀部を続けざまに狙った正確無比な射撃だった。
「敵襲だッ!」
傭兵団の男たちが叫び、それぞれの乗った馬が興奮して嘶く。突然の出来事に、ナナと御者のおじさんはただ口を開けて見ていることしかできなかった。
「クソ、霧に紛れてやがる。どこだ! どこにいる!」
「だぼ野郎が! 隠れてないで出てきやがれ!」
ひゅん、という音がまた聞こえた。先ほどと同じく、馬の臀部を狙った弓矢による狙撃だった。男たちが落馬し、泥の上に倒れ伏す。何がなんだかわからず、ナナは涙に濡れた目をぱちくりさせるだけだった。
弓に射られた馬たちが何度も嘶きを繰り返しながら、地面に倒れた傭兵団の男たちを踏みつけ逃げ惑う。ナナを羽交い締めにしていた色黒の男は、「畜生、何が起きてるんだ……!」と舌打ちをした。「出てこい、出てきやがれ……!」ナナを突き飛ばして放り出し、男は剣を抜いて気勢を上げた。そしてその剣も、飛んできた矢に射られて中空を舞った。どこからか男たちを狙っている射手の腕は、信じがたい精度といえた。
「そこまでです」
凛、とした声音がナナたちの耳朶を打ちつけた。
「てめぇ、何者だコラ!」
「名乗れコラ!」
「すっぞコラ!」
突然の闖入者が現れ、よろよろと起き上がった傭兵団の男たちが吠えに吠える。彼らと対峙しているのは、たてがみの長い白馬に跨がる美しいメイドの少女だった。弓と矢筒を背負い、右手に剣を携え、少女は男たちに向けて声を発する。
「私は〈王宮〉所属の〈エスパティエ〉——あなたがたのような賊に名乗る名前は、あいにく持ち合わせてなどおりません」
〈エスパティエ〉。その言葉にナナは息を呑んだ。〈エスパティエ〉とは、数少ない選ばれたメイドに与えられる称号だからだ。
「この辺りで略奪行為を繰り返す傭兵団が出没している、などという討伐要請が出ているそうですが……当該傭兵団は、あなたがたで相違ありませんね?」
凛とした声音で少女は言う。荒くれ者の男たちを前にして、一歩も退く気配を見せていない。
「何がメイドだコラァ! 女中風情が粋がりやがって!」
剣を失った金髪男が気勢を上げ、小振りなナイフを抜き放つ。それに対し、少女は馬を降りて剣を構え、ナナを庇うように前面に立った。
「お相手致します」
少女が言うと、男たちの殺気が膨れ上がった。
「んだコラァ!」
ナイフを構えた金髪男がいの一番に躍りかかる。少女は顔色ひとつ変えることなく、振るわれたその一撃を難なくかわし、剣の柄をひと振るいした。顎先に一閃。ガツン、という音がし、男の首が九〇度横に回転する。
「ぐえっ!」
叫び声とともに、金髪男の身体がくずおれる。男は路傍の泥に顔面をめり込ませて倒れ伏し、動かなくなった。柄で顎の尖端を強打され、気絶したのだ。
「まだ、やりますか?」
少女は残った三人の男たちに視線を向ける。
「やっちまえオラァ!」
男たちが一斉に少女めがけて襲い掛かる。しかし、結果は先の金髪男と同じだった。ひとり、またひとりと地面へ倒れて動かなくなり、最後の一人は側頭部を爪先で蹴られて吹っ飛んでゆき、木に背中を打ちつけて気を失った。あまりに見事な後ろ廻し蹴りだったから、ナナが思わず見とれてしまうほどだった。
まさに、瞬きする間の出来事だった。あっという間に屈強な傭兵団の男たち四人を無力化しておきながら、〈エスパティエ〉を名乗る少女は息ひとつ乱さず、髪筋ひとつ乱さず、御者のおじさんとナナの方へ向き直った。
「お怪我はありませんか?」
そこではじめて、ナナは少女の顔立ちを正面から見たのだった。流れるような金髪に驚くほど大きな青い瞳——とても美しく、清らかな身なりの少女だった。
「助かった。正直、もう駄目かと思ったよ……」
御者のおじさんは冷や汗を拭いながら言った。
「メイドさん、名前を教えてはくれんかね。あんたは命の恩人だ」
「ルル・ラ・シャルロット」
〈エスパティエ〉の少女はそう名乗った。
「たまたま通りがかっただけではありますが、王国の治政を乱すならず者たちを討伐するのも〈王宮メイド〉の責務ゆえ、当然のことをしたまでです」
ルル・ラ・シャルロットと名乗った少女は、御者のおじさんに向けて語りかける。綺麗で、とてもかっこいい人だな、とナナは思った。強くて、美しくて、かっこいい。幼い頃、祖母に読み聞かせて貰った絵本のメイドを思い起こし、次いでナナは「これは運命だ」と考えた。
幼い頃命を救ってくれた〈王宮メイド〉と、いま目の前にいる〈エスパティエ〉の少女は、こういってよければ瓜二つの見た目だったからだ。
ナナは、高鳴る心臓の鼓動を感じていた。
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「事情は理解できました。やむをえない事情といって差し支えないでしょう」
寮(ドミトリ)の玄関先で、ナナは大荷物を抱えたまま、上級生の監督生(ブリフェクト)と対面していた。馬車が賊の襲撃に遭い、予定から四刻も遅れて寮へ到着したナナは、既に施錠された扉を「ごめんください」叩き続け、監督生から門限破りの理由を問いただされていたのだ。
「ともかく、無事で何よりです。その〈エスパティエ〉の方は?」
「途中で別れました。ここから先の道はもう安全だからって」
「そうですか。あとで〈王宮〉の担当者へ礼状を送らなければ……〈王宮メイド〉の中でも、かなり位の高い方とお見受けしますので」
監督生はそう言って、手帳にメモを走らせている。
「あの……ところで私の部屋ってどこなんでしょうか?」
ナナがそう言うと監督生は険しい顔をし、眉間を揉んだ。何だか神経質そうな人だなぁとナナは思った。
「それなんですが……少々事務手続き上の行き違いがあったようでして」
「行き違い?」
「通常、寮生は二人一部屋で生活をします。ただ、今年度入学の寮生の総数は奇数であり、かつ事務手続きのミスで今年度入学の寮生の総数は『偶数』であるという間違った情報のもと、部屋の手配が行われていたようでして」
「はあ」
「よって、最後に寮へ到着した三名のみ、三人一部屋で生活をしてもらいます」
「え? つまり、私はその三人一部屋のところに入るってことですか?」
ナナは素っ頓狂な声を上げた。
「ご認識の通りです。この入寮誓約書にサインを」
重い荷物を背負い、階段を昇る。ぎしぎしと軋む床板は相当な年季が入っているようだった。歴史ある学園の歴史ある寮。とはいえ、その内装は少しばかり清貧にすぎるというのがナナにとっての偽らざる感想だった。監督生曰く、傷んだ箇所の補修などは寮生たちが持ち回りで行っているという話だった。
『忠節・礼儀・質素』を重んじる王立ファルテシア学園寮らしいといえばらしい話といえたが、「話には聞いていたが、それにしても……」と思う。ただ、それがゆえ「歴史ある王立ファルテシア学園へ、本当の本当に入学するんだ」という実感をナナ自身は覚えていた。「よしっ! 明日からがんばるぞ!」と気を取り直し、部屋の扉をノックする。
「あの、失礼します」
扉を開けて中に入る。すると、少女の金切り声が聞こえてきた。いきなりのことに、ナナはびっくりして尻餅をつきそうになってしまった。
「だから、あたしは全然納得なんかしてないわよ! 三人部屋なんて聞いてないもの! 追加のベッドまで運ばせられて、入寮初日から何でこんな目に遭わないといけないのよ!」
ベッドの縁に腰掛けた少女が、向かい側のベッドにちょこんと座る少女めがけ、何事かを捲し立てている。少しフランス訛りのある英語だった。同郷の人かな、とナナは場違いな感想を抱いているが、それにしても凄い剣幕で怒っているようだった。
「あんたが三人目?」
切れ長の瞳がぎろり、とこちらを睨んでくる。ブルネットの長い髪に細長い眉をした、少々神経質そうな趣の少女だった。
「あの……今日から同室になるナナ・ミシェーレです、よろしくお願い、します……」
いきなりの出来事にたじろぎながら、ナナはやっとの思いで挨拶した。
「あたしはリサ・キャロット。で、こいつがニコル・ベイカー」
リサと名乗った少女は、対面のベッドに腰掛ける黒髪の少女を顎で指す。「こいつ」なんて呼び方はあんまりじゃないかとナナは思ったが、ニコルと呼ばれた少女は気圧されているのか、言われるがまま縮こまっているのみだった。いかにも大人しそうな見た目だから、言い返すこともできないようだった。
「で、あんたずいぶん遅れてやってきたようだけれど、何かあったわけ?」
リサがナナへ向けて問いかける。ナナは一人だけ日没後の門限過ぎにやってきたのだ。監督生曰く、他の寮生は昨日の昼から今日の昼過ぎにかけて到着したそうだから、やむを得ない事情があったとはいえ、一人だけ大遅刻をしでかしたことになる。それは理由も気になるだろう。
ナナはそう思い、道中の体験をありのままに語った。馬車が賊に襲われたこと。〈エスパティエ〉の少女に危機を救って貰ったこと。そして、件の〈エスパティエ〉の少女の名前を口にしたとき、リサとニコルの目の色が変わった。予想だにしない反応だった。
ナナがたじろいでいると、リサが呆れ加減に言った。
「あんたもしかして知らないの? ルル・ラ・シャルロットっていったら〈王宮メイド〉の最高峰も最高峰……〈フォルセティ〉のうちの一人だよ!? あんたメイド学科へ入るくせに、そんなことも知らないわけ?」