第2話

​「彼女が努力をした理由」

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 あらゆるものが燃えていた。見知った景色の、あらゆるものが。

 村の広場へ皆が集められていた。葡萄農家を営むジェロームおじさん一家も、酒屋を営むクロエおばさん一家も、皆が皆、縄で後ろ手に縛られて一箇所に集められていた。ナナの家族も同様だった。父も、母も、祖母も、ナナも。皆が恐怖に震えていた。

 村を襲った盗賊たちは、家々の扉を蹴破っては中にある金品を略奪し、住人たちを縛っては、次々に外へ引き摺り出していった。もう奪うものがなくなった家々に松明の火を放っていく彼らの所業は、徹底的な破壊に他ならなかった。ナナの家も例外ではなかった。生まれ育った家が炎に巻かれてゆく様を、ただ見ていることしかできなかった。

 

「いやだ! やめて!」

 

 炎の爆ぜる音に混じり、幼馴染みのリアーヌの声が聞こえてきた。

 

「やめて! 離して!」

 

 リアーヌの小さな身体が、盗賊の男に抱え上げられていた。「やめろ、娘を離せ!」と抵抗したリアーヌの父親は頬をぶたれ、「今すぐ死にたくなきゃ、大人しくしてろ」と盗賊の男に唾を吐かれる。

 盗賊たちは、村人たちの中から若い男女を選別していた。高く売れる人間の「目利き」をしていたのだ。若い男であれば、重労働に耐えられそうな身体をしているか。若い女であれば、街の娼館が高い金を出しそうな容姿をしているか。子どもであれば、そうした将来性がありそうか否か。

 盗賊の男たちは、まるでひよこの雄雌を選別するかのように「目利き」を手早く、かつ効率的に済ませていった。盗賊の頭目とおぼしき男は、部下が連れてきた村人たちをひとりひとり見て、「連れて行け」「置いていけ」と瞬時に判断を下すのだ。

 

「よし、こいつは馬車に放り込め」

 

 リアーヌの顔を一目見た、盗賊の頭目らしき男が言った。

 

「パパ! ママ! 助けて!」

 

 悲痛なリアーヌの叫び声。それを聞いたナナは、「次は自分だ」と直観した。リアーヌの次は、自分がああやって家族から引き離されるのだと、幼いながらに直観したのだ。引き離されれば二度と家族と会うことはないだろう。ナナは恐怖で震えに震え、祖母に抱きかかえられながらさめざめと泣き出した。

 

「大丈夫。ナナちゃん、きっと大丈夫だからね……」

 

 ナナの身体を、祖母がきつく抱き締める。

 

「神様、どうか……この子をお守りください……」

 

 だが無慈悲にも、盗賊は主祷文を唱える祖母の手からナナを奪い取ったのだ。

 

「ふむ、このガキは高く売れそうだ」

 

 ナナの顔を見た盗賊の頭目が言う。

 

「ナナちゃん!」

 

 祖母の叫び声がひどく遠い。ナナは絶望の中でその声を聞いた。

 ああ……もう駄目なんだ。自分はどこか遠くの街まで連れていかれて売り飛ばされる。残されたお父さん、お母さん、おばあちゃんはきっと殺されるだろう。そんなことを意識すると、恐怖や不安や悲しみといった感情が一気に押し寄せ、最後に残ったのは諦め一点の感情だった——そのとき。

 

「掛かれ! ひとりも逃がすな!」

 

 凛とした女の人の声が轟いた。それと同時に、ナナを抱えていた盗賊の男が「ウッ!」と声を上げたかと思うと、突如として倒れ伏し、ナナは地べたに放り出された。何がなんだか分からず、口の中に入った砂利を吐き捨て、這いつくばりながら辺りの様子を確かめる。

 村を焼く紅蓮の炎をバックにして、馬に跨がった兵士たちが長剣やマスケット銃を手に次々と盗賊たちへ躍りかかっていた。兵士たちの軍服にあしらわれた徽章が、精鋭として知られるファルテシアの王宮騎兵連隊を示すことを、幼いナナはまだ知るよしもない。

 

「大丈夫か」

 

 黒い馬に乗った、美しいひと——ナナは声の主を見上げながらそう思った。熱風に棚引く目映いばかりの金髪に、凜々しいばかりの青い瞳。白とブルーの戦闘装束を身に纏った女騎兵が馬を下り、ナナのもとまで駆け寄ってきた。

 

「もう大丈夫だ。私の兵は強いから、君の家族も友だちも、きっと賊の手から守ってくれる」

 

 女騎兵の戦闘服にあしらわれた徽章。王冠を戴く二頭の獅子のはざまに刻まれし〈E〉の文字。それはまぎれもなく、女騎兵がファルテシア王室直属の最上級メイド——〈エスパティエ〉であることを示していた。

 精強な兵士たちを率いて戦場を駈ける〈王宮〉のメイド。伝聞の中の話でしかなかったそれが、いま幼いナナの目の前にあった。

 

「かわいそうに、こんなに震えて……」

 

 メイドの騎兵は跪き、ナナの身体を抱き締めて言う。ふと、それまでのナナが嗅いだこともないような、高貴で清らかな匂いに包まれた。

 ナナは命の恩人であるメイドの騎兵の顔をいまいちど見ようと試みる。目を見てしっかりと伝えるためだ。「助けてくれて、ありがとう」と。

 だが、その顔は判然としない。目も口も鼻も髪も輪郭も、奇妙にぼやけて像をなさない。なぜだろうと考える間もなく、その顔はルル・ラ・シャルロットのそれになり、次いで、その唇はこう動いた。

 

「起きてください、遅刻してしまいますよ」

 

 と。

 

 ~~~

 

「起きて! 起きてってば!」

 

 ふぁ? と間抜けな声を上げながら、ナナは目をぱちくりと瞬かせる。目の前には焦った様子のニコルがいて、毛布に覆われたナナの身体を揺すっている。窓からは穏やかな日差しが降り注ぎ、どこからともなくさえずる鳥の声が聞こえてくる。寮の部屋で初めて迎える朝であった。

 

「ナナちゃん、やっと起きた……」

 

 ニコルは安堵した調子でそう言った。一体何をそんなに焦っていたのか。ナナにはとんと見当がつかなかった。あわてんぼうさんなのかな……? そんなふうに思ったほどだが、次の言葉でそうした認識は完全に打ち消される羽目になってしまった。

 

「もうすぐ鐘が鳴っちゃうよ! 遅刻しちゃうよ!?」

 

 鐘が鳴る……? 遅刻……? 耳にしたそれらの言葉を頭の中で転がした瞬間、ナナの意識は突如として覚醒した。

 

「わーーーーーーっ!!?!」

 

 やにわに大きな声を張り上げて、ナナはベッドから跳ね起きる。

 

「どうしようどうしようどうしよう、遅刻しちゃうよ~~~!!」

 

 大急ぎで制服に着替え、寝癖のついた髪を整え、バタバタと部屋の中を駆け回りながら叫んでいると、「だから起きてって言ったのに~」とニコルは頬を膨らませてナナに言った。

 寝癖をすっかりと整え終え、持ち物を詰め込んだ鞄を引っ掴むと、ニコルが部屋の扉を開けて「早く早く」と促してくる。鐘の鳴る音が学園の礼拝堂から聞こえると、始業の合図だ。入学式(マトリキュレーション)当日に遅刻など洒落にもならない。ナナとニコルは寮の階段を急ぎ足で駆け下りた。

 

「あっ、忘れ物! ニコちゃん、先行ってて!」

 

 突然、ナナはきびすを返して部屋へ戻る。あるはずのものが制服の腰元にないことに気づいたからだ。故郷の祖母が昔くれた、大事な大事なシュークリームを模した人形。ナナはそれを「シュークリーム君」とひそかに呼んで大切にしていた。いわば、お守り代わりの一品だ。

 ニコルを伴って寮から校舎へ続く一階の渡り廊下を走り抜け、「廊下を走るな新入生!」と上級生から注意され、そして講堂へ滑り込んだ瞬間、礼拝堂の方から鐘の音が聞こえてきた。ギリギリセーフ、というやつだ。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 ニコルは乱れた息をつきながら、汗を額から滲ませている。一方、走るのが得意なナナは何てことのない様子だった。幼い頃から高低差のある故郷の丘を友だちと一緒に走り回っていたのだから、寮から校舎までのごく短い距離など、走ったうちには入らないのだろう。

 

「すごいね……ナナちゃん、息、全然、乱れてない……」

「ニコちゃん、汗すごいよ」

 

 ナナはハンカチを取り出して、ニコルの額の汗を拭ってやる。

 

「はぁ、はぁ、ごめんね……」

「何でニコちゃんが謝るの?」

 

 今度は首筋の汗を拭い取る。

 

「遅刻しかけたのは私のせいだし、よかったら、これ使って」

 

 ニコルの手にハンカチを握らせ、ナナは「ごめんね」といった具合に少々ばつの悪そうな笑みを浮かべる。

 

「ありがとうナナちゃん……洗って、返す、ね……」

 

 ニコルは少しばかり赤面しながら、上目遣い気味に言った。

 

「はーい、着席しろヒヨっ子どもー」

 

 つかつかと靴音を響かせながら教壇に立った女が言った。講堂に詰めるメイド学科の新入生たちは、その一声で素早く席に着いている。ナナとニコルも同様だった。

 見れば、リサは前列の方の席に着いていた。ナナとニコルが寮の部屋を出る遙かそれ以前から、既にその席へ座っているといった風情だった。

 

「私の名はアヴリル・メイベル・レディントン。長いからレディントン先生で良い」

 

 教壇に立つ女は、ゆるく長いウェーブを描く金髪をふわりとなびかせ、黒板の方へ向き直ったかと思うと、〈Avril Mabel Reddington〉と流麗な筆記体で自分の名前を書いてみせた。

 

「私はこの学園の教師でもあり、〈協会(ソサエティ)〉から正式な認可を受けた〈紋付きメイド(コミュニア)〉でもある。今日からお前ら一年生のヒヨっ子どもの担任をやらせてもらう。よろしく頼む」

 

 レディントン先生は、緩やかなアーチ状に切り揃えられた前髪の下から覗く双眸で、ぐるりと講堂中の生徒たちを見渡した。とても意志の強そうな瞳だなとナナは思った。昨日窮地を救ってもらったルル・ラ・シャルロットさんみたく、一人前のメイドの人の目ってみんなあんな感じなのかな……とも少し思った。おそらく、類い希な意志の強さを持っていなければ、立派な一人前のメイドにはなれないのだろう。

 

「いいか、まず最初に言っておく。〈メイド道〉は『強さ・賢さ・美しさ・清らかさ』の四つの事項を重んじる」

 

 レディントン先生は〈Strength〉〈Intelligence〉〈Beauty〉〈Purity〉と板書した。

 

「これらを形成する基礎は何だと思う。……はい、そこのお前」

 

 ビシッ、といった具合にレディントン先生から指をさされ、講堂の後方列に座っていたナナの身体は反射的にびくんと跳ねてしまう。指されるなら前の方からと思っていたため、不意を突かれた格好だ。

 

「え、え、え、っと……努力、ですか……?」

「0点の回答だ。努力などして当たり前だからな。努力を怠るやつはメイドになるどうこう以前の問題で、この学園の勉強についていけず、いずれ放校処分を受けることになるだろう。問題外だ」

 

 ナナはがくんと項垂れる。瞬間的に思いついたにしては、そこそこ自信のある回答だったからだ。

 

「はい、次、そこのお前」

 

 続いてレディントン先生は、講堂の前列席の方、背筋をぴんと伸ばして座っている生徒を指さした。いかにもな堅物を絵に描いたような顔をした、ショートの黒髪の女の子だった。彼女の隣の席にいる派手な見た目をした巻き髪の子と、始業時間前から何やらひそひそと話していた様子であったから、ナナの意識に残っていた生徒であった。

 

「規律、でしょうか」

 

 低く通る声で、黒髪の子は応えてみせた。レディントン先生は「ほう」とでも言いそうな表情で回答を聞き、「正解だ」と生徒たちに言った。

 

「そう、『強さ・賢さ・美しさ・清らかさ』——いずれも規律の上に成り立つものだ。〈メイド道〉を構成するあらゆる事柄は規律なくして成り立たない。〈協会〉に属するメイドであれ〈王宮〉に属するメイドであれ、メイドとはそもそも主人に仕え働く者だからな。規律に準じることは、メイドの基礎にして鉄則といえる。それを肝に銘じておけ」

 

 そして、レディントン先生は黒髪の子に向き直る。

 

「正解を一発で叩き出した生徒を見るのは五年振りだ。君、名前は」

「ジュリア・エインフェリア」

 

 黒髪の子が「エインフェリア」というファミリー・ネームを発した瞬間、レディントン先生の眉がかすかに動いたような気配がした。

 

「すると、隣にいるのはアインフェリア家の娘か」

「はい。エリザベート・アインフェリアと申します」

 

 ジュリアと名乗った子の隣に座る、金髪を巻き髪にした派手な子が応えた。

 

「貴族ですらメイドを目指す時代、か……成る程な」

 

 何やらひとり合点した様子のレディントン先生は「何にせよ」と一連の流れを締めくくり、続けざまにこう言った。

 

「まずは規律の『き』の字から、お前らヒヨっ子どもに実践してもらうことになる。整列と行進は新兵(ルーキー)が最初に覚えるべき基本事項だからな。私の先導に従い校内各所を移動し、入学式(マトリキュレーション)の準備を執り行う。もたもたするヤツは置いていくから覚悟しておけ」

 

 ~~~

 

 そこから先は、「めまぐるしい」の一言だった。まず別棟の教室へ移動し、先輩メイド学科生たちに囲まれ、衣服を次々に着せ替えられる。入学式(マトリキュレーション)の服装規定に従った正装(サブファスク)へ着替えるためだ。白いシャツ・ブラウスの首元に黒いリボンを結わえ込み、黒いスカート、黒いストッキングに黒い靴を穿くよう言われ、最後にガウンを羽織り、学帽を手に持つことを命じられる。なお、学帽をかぶることは許されていない。学帽を被るのは卒業式のときだけと厳格に決まっているからだ。

 こうした正装(サブファスク)なくして入学式(マトリキュレーション)への参加は許されない。会場にさえ立ち入れないほどだ。

 何事にもドレス・コードが存在し、それを守らぬ者は行事への参加資格さえ与えないというのはいかにもファルテシア王国らしい流儀といえたが、ナナはそこで見る何もかもが新鮮で、忙しく立ち回るのに目眩に似た感覚を覚えつつも、あらゆる好奇心を刺激されてうずうずするほどだった。

 着替えに続いては、入学式の式次第と段取りをすべて説明される。新入生はどこをどう歩き、どう振る舞い、どう退場するかまで、一言一句聞き逃さないよう皆が耳をそばだてメモを取る。入学式(マトリキュレーション)はすべての段取りが厳密かつ精緻に組まれているのだ。格式ある学園の一員となるのだなと、ナナは今更ながらの実感を得はじめていた。

 こうして式が始まるまでの間は一瞬で過ぎ去ったかに思えた。それほどまでの目まぐるしさだった。

 メイド学科のみならず様々な学科の新入生が大勢居並ぶホールにおいて執り行われる入学式(マトリキュレーション)は、まずファルテシア学園管弦楽団の荘厳な演奏に始まり、学園長(マスター)のウィットに富んだスピーチへと続いてゆく。〈Sui generis(他に類を見ない, 独自の)〉や〈Pansophy(万有知識)〉など、スピーチには難解な単語が時折混じっていたから、ナナは話の文脈を八~九割程度しか理解することができなかった。あとで分からなかった単語を書き起こし、意味を調べなくては……そう思っているうちに学園長(マスター)のスピーチが終わり、続いて起こったできごとに、ナナは心臓がひっくり返りそうな思いを味わった。

 ホールの舞台袖に、見覚えのある姿を認めたためだ。

 ルル・ラ・シャルロットさん。

 あの姿は見間違えようもない。服装こそ昨日と異なり正装のドレス姿だったが、ナナを危機から救ってくれた恩人の姿に相違なかった。あまりの驚きに、思わず目を見開いてしまったくらいだった。

 

「続いて、我が学園の誇る卒業生——〈王宮〉に仕える〈エスパティエ〉が最高峰、〈フォルセティ〉の一人……ルル・ラ・シャルロット氏から新入生の皆さんへの訓示をいただくことと致しましょう」

 

 学園長(マスター)はそう言って、壇上のルルと握手を交わし、舞台袖へ消えていった。入れ替わるようにして舞台中央のスピーチ台に立ったルルは、昨日と同じく凜然とした声でこう言った。

 

「新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。王立ファルテシア学園の〈ファミリー〉へようこそ。はじめまして。ルル・ラ・シャルロットです。私はここの卒業生でもあり、現在は〈エスパティエ〉として〈王宮〉に仕える身分でございます。先ほど大層なご紹介を頂きましたが、私も皆さんと同じ、〈ファミリー〉の一員であることに変わりはありません——」

 

 衝撃のあまり、ナナはスピーチの内容をほとんど覚えていなかったという。

 

 ~~~

 

 同室のリサの言葉を思い出す。彼女曰く、

 

「ルル・ラ・シャルロットっていったら〈王宮メイド〉の最高峰も最高峰……〈フォルセティ〉のうちの一人だよ!? あんたメイド学科へ入るくせに、そんなことも知らないわけ?」

 

 また彼女曰く、

 

「普通は私たちなんかが会えるはずない身分の人だよ? とっても高貴な身分の人なの。〈王宮〉に仕える〈エスパティエ〉。さすがに〈エスパティエ〉がどれだけ特別な称号か、ってことくらい、わかるでしょ? 一般の〈紋付き(コミュニア)〉メイドの中でも、限られた優秀な人材だけに与えられる特別な称号。そんな〈エスパティエ〉の中でも、更に飛び抜けて優秀な四人組のメイドが存在する……」

 

 彼女たち四人組は〈フォルセティ〉って呼ばれてる——リサはそう言って、ぽかんと口を開けたままのナナを見て、「あんた、何でメイド学科に入れたわけ?」と苛立たしげに溜息をついたものだった。

 いずれにせよ、先の入学式でナナが得たものは三つあった。

 またシャルロットさんに会えた、という嬉しさがひとつ。本当に優秀で高貴な身分の人なんだということを知った驚きがひとつ。そして、一介のメイド学科生たる自分とは遙かに隔絶された、遠い世界の住人なんだということを思い知らされた衝撃がひとつ。

 また会ったら改めてお礼を言いたい。いつかあなたみたいな強くて美しくて清らかで格好良いメイドさんになりたいという意思も伝えたい。だが、それを直接伝える手段も何も持ち合わせてはいなかった。身分が違いすぎて、きっと手紙すら送ることはできないだろう。

 ナナは落胆していた。憧れの人に、憧れている事実そのものすら伝えることができないなんて。

 

「次の方、どうぞ」

 

 ナナたちメイド学科の新入生は式の終了後、夕陽の差し込む教室でまたしても待機させられていた。一人ずつ別室に呼ばれ、入学にあたっての〈サイン〉と〈宣誓〉を行うためだ。学園に代々伝わる分厚い本——〈ザ・ブック〉に自分のサインを記帳して、この学園において真摯に学ぶことを神の前で宣誓するのだ。それは学園において古くから続く伝統であり、新入生を王立ファルテシア学園の〈ファミリー〉へ迎えるのに必要な儀式でもあった。

 

 

 

 サインと宣誓を終えたのち、新入生たちは、学園長(マスター)を筆頭とした学園幹部らとひとりずつ握手をして言葉を交わす。それで入学式(マトリキュレーション)は終了し、ひとまず正装(サブファスク)を脱ぐことを許可される。次ぎに正装(サブファスク)を身に纏うのは、落第に伴う放校処分を受けない限り、卒業式のときになるはずだった。

「次の方……」

 

 ドアの中からナナのひとつ前の学籍番号を持つ生徒が出てきて、係の人から呼び声がかかる。ナナは「はい」と返事をして「失礼します」と室内へ入った。

 

 そして、ナナはまたしても心臓がひっくり返るような思いを味わった。

 

 部屋の奥に据え置かれた瀟洒な机。その上に鎮座する〈ザ・ブック〉までに至る道を、左右から挟むようにして長机が置かれている。そこには学園長(マスター)を筆頭にあらゆる学園幹部が着座しており、新入生の一挙手一投足を見守っている。

 

 その中に、いたのだ。先刻見た、正装姿のルル・ラ・シャルロットが。

 

 大した心の準備もないままにその場へ放り込まれたナナは、全身から緊張に伴う冷や汗を垂らしながら、ぎこちない動きで〈ザ・ブック〉のもとへ歩んでゆく。予め伝えられ、暗記していた記帳と宣誓の手順を踏む間、ルルの視線が気になって仕方なかった。

「励みたまえ。ここで学べば、君は未来を背負って立つ立派なメイドになれるだろう」

 学園長(マスター)と握手を交わす。ナナは曖昧に返事をしながら、「はあ」とか「ええ」とか、心ここにあらずといった調子で応えた。

 

「うふふ……」

 そんなナナの様子を見たルルが微笑んだ。学園長(マスター)の隣、他の名だたる教諭陣の中にあって、いささかも気後れすることのない自然体で、口元にほんの少しだけ手を添えて笑ったのだ。

「そんなに緊張なさらないでください」

 

 ナナがルルの前へ歩み出ると、ルルはナナの首元へ細い指先をそっと伸ばし、襟元のリボンの形を整えた。その手が近づいてきた瞬間、高貴で品のある匂いがふわりとナナの鼻先に漂った。位の高い淑女が社交界で身につけるような、最高級の香水の薫りだった。

「あ、あの。昨日はありがとうございました……えっと、あのとき助けて頂けなかったら、私はいまこの場にいないと思っていまして、その……」

 喉から何とか声を絞り出した。だが、続く言葉が出てこない。

「メイドにとって大事なことのひとつは、美しさ。リボンが曲がっていては、お礼を言うにも格好がつきませんよ」

「す、すみません!」

 はわわ、と覚束ない呂律でナナが応えると、ルルはまた微笑んだ。

「やっぱりそうだわ。良い目をしている。真っ直ぐな目」

 

 ナナはじっと目を覗き込まれる。吸い込まれそうなほど大きく美しい瞳に、思わずたじろいでしまうほどだった。

 

「何があっても意志を貫き、曲げないこと。めげないこと。諦めないこと。メイドになるための競争は厳しいけれど、友だちを思いやる心も忘れずに。ここで得た友人は生涯の宝になる。それを忘れないで」

 ナナはルルと握手を交わした。とても暖かい手だとナナは思った。

 全員と握手を終えて一礼し、〈ザ・ブック〉の置かれた室内を辞去すると同時、緊張のあまりシャルロットさんに大したことを言えずに終わってしまったとナナは思った。

 だが、ナナの心持ちは部屋へ入る前のそれと幾分か異なるものになっていた。「それで良いのだ」と思った。学園で一生懸命勉強して、立派なメイドさんになって、そして一人前のメイドとしてシャルロットさんに再会できればそれで良い。ナナは明日から誰よりも頑張るんだと決意した。不思議とそういう気持ちになっていたのだ。

 ~~~

 

 想像以上の過酷さだった。ナナのみならず、ニコルも、リサも、他のメイド学科新入生の皆も、きっと同じ気持ちに違いなかった。

 最初の一週間——部活見学など、新入生歓迎週間(フレッシャーズ・ウィーク)における楽しいひとときもそこそこに、ナナたちは早速メイド学科一年次の洗礼を浴びていたのだ。

 メイド学科一年次は、まず社交界で通ずるレベルの語学力を徹底的に叩き込まれる。メイドとしてこなすべき炊事・洗濯・掃除などの各種スキルについても座学や実習は行われるが、それらは「メイドであればできて当たり前」と見なされる。メイドにとっては基礎スキルにすぎないそれらより学園が遙かに重要視するのは、何においても語学だった。

 ナナの場合、母語がフランス語であったので、まずは英語を徹底的に訓練するクラスに入れられた。上流階級の英語——キングス・イングリッシュを学ぶクラスだ。ブリテン島の北方地方出身のニコルも、ナナと同じくフランス出身のリサも、入学初日にレディントン先生から褒められていたイタリア出身のジュリアとエリザベートの二人組も、そのクラスに入れられていた。

 キングス・イングリッシュを学ぶクラス、とはいっても、その授業内容たるや「学ぶ」という言葉が生易しく聞こえるほど苛烈なものに相違なかった。外交官を育成する学科の生徒たちと同じクラスに放り込まれたのだから、尚更だった。このクラスでは外交官の卵とメイドの卵がまったく同一のレベルを求められるのだ。

 まず、講義へついてゆくためには毎日三〇前後の単語と六つほどのフレーズを暗記しなければならなかった。午前中にメイド実務や基礎体力向上のための訓練、会計基礎などの講義がある日を除けば、午前一杯が文法の授業、昼食後から夕方までが会話の授業となるのが常であり、その後は宿題がどっさりと出るのだから堪らなかった。

 さらに毎週一回、単語やフレーズの理解を確認するための小テストがあり、月に一回文法と作文のテストがあった。これの再テストで赤点——すなわち八割未満の点数を二回取ると、問答無用で落第になる。レディントン先生曰く、英語のクラスは成績不良で毎年一割ほど、多いときで二割ほどの生徒がいなくなるという話だった。

「今日の小テスト、パスできるかなぁ……」

 講義の合間、学園の回廊を移動しながらニコルが不安そうな声で言った。

「昨日みんなで勉強したから、大丈夫だよ!」

「そういうあんたは先週の単語テスト再試になってたじゃん。自分のことは大丈夫なわけ?」

 ナナとニコルを早足で追い抜きながら、リサが言った。入寮初日から三週間と少しが経ったが、つっけんどんな態度は変わらない。

「今週は、大丈夫、な、はず……多分……」

「前回の再テスト結果は?」

「八十一点……」

「呆れた、ギリギリじゃない」

「う」

「同室だから助け合うだなんて、甘いことは考えない方が身のためね。他人のことに気を取られているうちに、足下すくわれて終わるわよ」

 そのままリサは歩み去っていった。事実、ナナは単語テストの再試に一度落ちる寸前までいったのだ。

「ナナちゃんはすごく努力してるから、きっと大丈夫だよ」

 ニコルが励ますように言った。

「料理も掃除も洗濯も、それから武芸の実習も、ナナちゃんはみんなより頑張ってるから、すごいなって思ってて……だから、語学の授業も、きっと大丈夫」

 

 

 

「料理も掃除も洗濯も、それから武芸の実習も、ナナちゃんはみんなより頑張ってるから、すごいなって思ってて……だから、語学の授業も、きっと大丈夫」

 

 赤面しながらニコルが言った。少し引っ込み思案なところがある子だから、面と向かって人を褒めたてたり励ましたりするのが恥ずかしいのだろう。ナナはそう思った。

 元々あんまり人と話すのが得意じゃなくて、でも、ナナちゃんは初対面のときから不思議と話しやすくて——ニコルはそんなことを言っていたっけ。ナナは一週間ほど前の記憶を呼び覚まし、ついでに別の記憶も呼び覚ました。あれは一体、何だったのだろう……。ナナは少しばかり考える。ニコルと一緒に行動するようになってから三週間。少しだけ変わったところのある子だなというのが、ナナにとっての率直な印象だった。それは、あるひとつの出来事に起因していた。

 一週間前のある夜のこと——リサの不在時に寮部屋へ入ると、ナナのベッドで毛布にくるまり、スーハー息をしているニコルに出くわした。ベッドを間違えている旨を伝えると、彼女は慌てたように身を起こし、「サナギの気持ちって、どんなのだろうって思って……」などひどく慌てた様子で奇天烈な理由を述べたのだった。

 サナギの気持ちになりたいなんて、やっぱり変わった子だな——ナナはそう結論づけ、考えを一旦打ち切った。

 ともあれ、少々変わったところはあれど、友だち想いで、優しくて、それでいて努力家なニコルを、ナナはとても尊敬していたし、大切な友だちだと思っていた。この学園に入るため、想像を絶する勉強量をこなしてきたという努力家のニコルをして「ナナちゃんはすごく努力してるから、きっと大丈夫だよ」とまで言わしめたのだ。その言葉はお世辞でも気休めでもありえず、ナナはあらためて「頑張ろう」と思った。

 メイド学科の一年次もまだまだ始まったばかり。こんなところで躓いてはいられないのだ。すべてはシャルロットさんのいる場所へ通ずる道——そう思い、ナナはニコルを伴って語学の教室へ入っていった。

 先に着席していたリサと視線が合う。軽く手を振ってみるが、リサはぷいと視線を背けて相変わらずの態度を見せてくる。もう少し、リサちゃんと仲良くなりたいんだけどな——ナナはそう思い悩みながら席に着く。

 そして、入学初月を終えた十一月初旬。リサとナナの身に、あるとんでもない出来事が起こるのだった。

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