第3話

​「彼女が勝負を受けた理由」

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「……聞こえなかったようだからもっぺん言ってあげる! 没落貴族サマがお嬢だの何だのって今さら特権階級ぶっちゃって……私が『一般人』ですって? あんたたち没落貴族のそういうところが気にくわないって言ってんのよ!」

 

 リサがジュリアに詰め寄って、怒気も顕わに吠え立てる——。

 

「それ以上お嬢を侮辱するな!!」

 

 ジュリアがリサを睨み返し、噛み付かんばかりの勢いで声を荒らげる ——。

 二人の言い争いは、いまや口論の域を超えつつあった。そのあまりの剣幕に、ナナは「どうしよう……」と狼狽えるばかりで何もできない。だが、このまま放っておけば取り返しのつかない事態へと発展するのは確かだった。

 ナナは覚悟を決めた。二人の喧嘩を止めなければならない。そのための行動を起こさなければならなかった。そして彼女は、二人の間へ割って入るべく、一歩足を踏み出した——。

 

 そもそも、なぜリサとジュリアは言い争うに至ったのか。

 話は三日前まで遡る。

 

 ~~~

 

 寮の夕食は当番制の持ち回りであり、今夜はナナ、ニコル、リサたちの番だった。メイン・ディッシュはコッカリーキ・スープ。ニコルの故郷、スコットランドの家庭料理だ。コック(鶏肉)とリーキ(ポロねぎ)を煮込むスープだから、コッカリーキ・スープという名前がついているのだそうだ。

 

「最近ちょっとずつ寒くなってきたから、暖かい料理がいいかなと思って」

 

 とはニコルの弁。料理当番の監督役である彼女はナナとリサに指示を出したり、パンの焼き具合を確かめたり、デザートの準備をしたりと、厨房を右へ左へ大忙しといった様子だった。

 ニコルの指示通り、皆で手分けをして夕食の準備を進めていく。ナナの担当はスープの具となるリーキとタマネギを切る作業だった。何せ量が多いから、特にタマネギを剥いたり切ったりする間、ナナは「目が染みるー」と涙目になりながら作業を進めなければならなかった。

 その間、鶏肉をぶつ切りにし続けるリサは「手を止めない!」など声を飛ばし、ニコルは「大丈夫?」とナナの涙をハンカチで拭ってやらなければならなかった。

 

「わ、いい匂いです」

 

 でき上がった食事を配膳していると、同室のカエデを伴い食堂にやってきたリン・ファンが嬉しそうな声を上げた。

 リンとカエデは、ナナたちと同じくメイド学科の一年生だ。リンは清(中国)からの留学生。カエデはファルテシア育ちの東洋人。それぞれ十二歳と十一歳とまだ幼い年頃だから、いつも連れ立って行動しているリンとカエデは、まるで仲の良い小さな姉妹のようだと、同級生たちから可愛がられることもしばしばだった。

 

「これ、何のスープです?」

「コッカリーキ・スープ。鶏肉とリーキとタマネギとプルーンを煮込んだスープだよ。ニコちゃんのふるさとの料理なんだって!」

 

 リンの問いかけにナナが応えた。

 

「おかわりもあるから、いっぱい食べてね!」

 

 配膳を終えたニコルとリサが、ナナとリンとカエデと一緒のテーブルに着く。

 

「デザートにはバーント・クリームを焼いてあるんだ」

「バーント・クリーム?」

 

 ニコルの発した聞き慣れない単語に、リンが小首を傾げてみせた。

 

「クレーム・ブリュレのことだよ。ニコちゃんのバーント・クリームは絶品だから、食べたらきっとビックリするよ!」

「おー、それは楽しみです!」

 

 ナナの言葉にリンが目をキラキラと輝かせる。

 食前の祈りを済ませ、皆でスープを口にして「おいしい」「暖まるね」と感想を言い合う。ニコルの故郷であるスコットランドの冬は寒いから、大人の人たちはこういったスープと一緒にウイスキーを呷って暖を取るのだという。確かに、具材の滋味とともに芯から身体が温まるスープだった。

 十一月——冬の気配が時折顔を覗かせるようになった昨今において、確かに温かい料理はありがたい。ニコルの気配りに、皆が感謝の言葉を捧げていた。

 

「ところで、今日の歴史学の講義ですけど」

 

 リンがおもむろに発言すると、ナナは思わず「うっ」と声を洩らしてしまう。気が重く、あまり考えたくない話題に水を向けられたからだった。

 

「レポートの課題、皆さんはどういう答案を考えていますか?」

「確か……えっと、〈大戦〉と〈協会(ソサエティ)〉と大ドイツの……ドイツの……何だっけ?」

 

 言いながら、ナナは「はて」と首を傾げる羽目になってしまった。そんなナナの様子をちらりと横目で見遣って溜息をつき、代わりにリサが課題の内容を諳んじた。

 

「十六世紀から十七世紀中盤にかけての貴族・農業資本家の資本蓄積とメイド文化の発展、〈大戦〉を経た〈協会(ソサエティ)〉設立に至るまでの過程を、欧州連合、大ドイツ、オスマン帝国の関わりなど、地政学的観点も交えて述べよ——」

 

 それほど難しい課題ではないわ、とリサは言い、

 

「まず十七世紀、ドイツ統一軍をはじめとした諸国との〈大戦〉と、社会不安の増大が発生したでしょ? それで貴族と農業資本家への反乱と一揆がヨーロッパ各地で次々と起こって、当時の特権階級に雇われていたメイドの死傷件数も増大した——結果、当時〈大戦〉の中立国だったファルテシア王国で、メイドの保護・管理・育成を担う〈協会(ソサエティ)〉が設立された……教科書通りの回答だと、ざっとこんな回答かしら」

 

 まるでスラスラと教本をそらんじているかのような調子だった。だが、リンは「それだけの回答では、地政学的観点が欠けています」とかぶりを振り、こう続けた。

 

「〈協会(ソサエティ)〉設立が〈大戦〉による社会不安に依拠していたという点は、いまのリサさんの回答で確かに説明可能でしょう……。ですが〈協会(ソサエティ)〉設立の経緯としては、十六世紀中盤の〈黄金の平和〉とメイド文化の隆盛も同時に論じられるべきでしょう。そもそもファルテシア王国独自の〈黄金の平和〉は、ヨーロッパ本土でのオスマン帝国の地政学的脅威が背景にあってですね——」

 

 突如はじまった難解な歴史学のディスカッションに、ナナはくらくらとした目眩を覚え、「全然わかんないよー……あとで宿題おしえて……」とニコルに力なく抱きつく他ないのであった。

 座学全般が得意でないナナは、とりわけ歴史学の講義が苦手だった。難しく馴染みのない言葉ばかりが並ぶ教科書を読んでいると、思わず眠たくなってしまうほどだった。

 そんなナナの様子を見て、リサがわずかに眉根を寄せた。

 

「この程度の議論にもついてこられないの? そんな学力でこの学園に入れたなんて……とても信じられないわね」

 

 多少の軽蔑の念が篭もった視線だった。メイドは主人のための諜報活動にさえ従事する職業なのだ。それゆえ、歴史学や政治学に通ずるのはメイドとして最低限の教養のはず——なのにこいつときたら……曰くそう言いたげな調子であった。

 

「リサさん、確かにナナさんは勉強が苦手なようですが——」

 

 勉強が苦手なようですが——きっと悪気はないであろうリンの言葉が、ナナの胸にグサリと音を立てて突き刺さった。「うー、ニコちゃんー……」と悲しげな声を洩らし、ナナはまたしてもニコルの身体に抱きついた。一方、よしよしとナナを慰めるニコルの顔には、幾分か嬉しそうな表情が浮かんでいた。

 

「ナナさんは他の誰よりも頑張り屋さんです。そこは認めてもいいのではないでしょうか。現時点での出来不出来ばかりに気を取られていると、努力を継続する者にきっと足下をすくわれる——私はそう思いますが」

 

 リサがリンのことを睨み付ける。

 

「あんた……何が言いたいわけ……」

「ナナさんを馬鹿にするのはやめてください。そう言っているんです」

 

 テーブルに気まずい沈黙が流れた。リンは思ったことをはっきりと言うタイプだから、比較的きつい物言いをするリサと対面した場合、まれにこういった衝突が発生する。

 

「何よ、それ……」

 

 リサはそれ以上何も言わなかった——いや、言えなかった、といった方が適切であろうか。

 メイド学科一年生の成績は、どの教科をとってもリン・ファンが学年一位の座に君臨し、二位にはエリザベート・アインフェリア、およびジュリア・エインフェリアの貴族出身組がほぼ同率で並んでいる。リサはそこから更に離れた学年三位が定位置だった。

 つまり、口先だけの言い争いでリンに勝てないことを、リサは充分すぎるほどに知っていたのだ。内心では、頭の出来でははじめから勝ち目がないとさえ思っているほどだった。それほどまでに、リンの勉学の成績は突出していた。

 曰く、清の国策であるメイド育成プログラムに採択された天才少女——それがリン・ファンという生徒に他ならない。本来出来の良い生徒であるはずのリサがリンに一目も二目も置くのも、無理からぬ話ではあったのだ。

 

「デ、デザート持ってくるね……」

 

 沈鬱な場の空気を変えようと、席を立ったニコルが厨房の方へ向かってゆく。

 

「そ、そういえばクリスマス茶会、みんな企画案考えた……?」

 

 ぎこちない笑みを浮かべたカエデが言った。こちらも場の気まずさに耐えかね、話題を変えようと試みたのだ。

 

「クリスマス茶会は、一年生の皆でメイド学科の上級生をおもてなしする行事なんですよね? 自分たちで企画を考えて実行しろと言われても、中々難しい課題といわざるを得ません……何せ向こうは我々よりメイド道に通じている先輩たちなわけですし……」

 

 リンが唸る。レディントン先生からクラスの皆に出された宿題は、さしもの天才少女でも頭を悩ませる類のものであるようだった。

 

「大丈夫! 先輩たちにおもてなしの心が伝われば、きっと大丈夫だよ!」

「そういうナナさんの前向きなところ、リスペクトです。何か妙案が?」

「うーん、特にない……かな……」

「マジですか。さっきの自信がどこからきたのか知りたいものです」

 

 ナナとリンの漫才めかしたやりとりの最中、カエデは「あはは」と笑っていたが、リサの顔は沈鬱なままだった。スプーンを持つ手の動きも止まっている。

 

「お待たせ!」

 

 ニコルが盆に載せたバーント・クリームの皿を各自の前に配っていく。「わあ、おいしそう!」と笑顔を浮かべるナナたちをよそに、やはりリサは浮かない表情を浮かべたままだ。

 

「ごめん、いらない……」

 

 おもむろにリサが立ち上がった。

 

「私の分のデザート、みんなで食べて……せっかく作ってもらったのに、悪いけど……」

 

 うつむき加減のリサはそう言い残し、まだ中身の残っている食器を盆に載せ、厨房の方へ向かってしまった。

 

「リサちゃん……」

 

 その後ろ姿に、ニコルが心配そうな顔を向けている。

 

「いじけているだけです。放っておけば、そのうち頭も冷えるでしょう」

 

 リンはバーント・クリームを頬張りながら言った。

 

「何かリサちゃん、焦ってるみたい……」

「焦ってる?」

 

 カエデがぽつりと零した言葉に、リンは「?」という表情を見せた。

 

「もとより成績優良なリサさんが焦る必要など、どこにあるというのですか?」

「わからない……けど、最近のリサちゃんは何か余裕がなさそうな感じがして、見てて危なっかしいかなって思うんだ……」

 

 カエデの応えにリンは「ふーむ」と唸り、「ま、ちょっと様子を見てみますか」と言ってひとまず話題を打ち切った。

 しかしこの翌々日、リサがジュリアとの口論沙汰を引き起こすことなど、このときは誰も知る由などなかったのである。

 

 ~~~

 

 事件の予兆は、翌日の放課後——メイド学科一年生全員が集う、クリスマス茶会に向けた企画会議のときから表面化した。

 

「だからさ、我が校の誇る名門馬術部の一年生vs上級生で下克上ジョスト・トーナメントを開催するのさ! 賭け試合にしてさ! きっと盛り上がるぜ!」

「ちょっとケリィ、どうせあんたのことだから、八百長試合仕組んで一儲けするって魂胆でしょ」

 

 美術部員のビアンカが言うと、教室中にドッと笑い声が響き渡った。ナナやニコルたちもつられて笑う。

 

「そんなセコい真似しねーって! ま、いいじゃんか。どっちにしろ、さっきお前さんが言ってた美術部の展覧会よりは、エンタメ性に富んだ催し物になると思うぜ」

「あんたね、興業打とうってんじゃないの。茶会よ茶会。上級生を国賓に見立てたオフィシャルな茶会なのよこれは。わかる? ドゥー・ユー・アンダスタン?」

「はいはいビアンカお嬢様。ミラノのお嬢様のくせして英語がお上手なこって」

「あんたのアイルランド訛りよりかはよっぽどマシ。毎日語学の宿題見てやってるのはどこの誰だか忘れたかしら?」

 

 馬術部員のケリィと美術部員のビアンカのやり取りは一向に終わりそうになく、レディントン先生より議長役を仰せつかった級長の子は、「はい、はい、痴話喧嘩はそこまで」と二人を制止しなければならなかった。ちなみに、レディントン先生本人は会議の侵攻を級長に任せ、早々に職員棟へ引っ込んでしまっていた。

 

「ケリィちゃんとビアンカちゃん、あの二人、つき合ってるってナナちゃん知ってた?」

 

 誰にも聞こえないよう、隣席のニコルがひっそりと囁くようにしてナナに告げた。それを聞いたナナは思わず「え!!??」ともの凄い声を出してしまった。

 

「静粛に」

 

 級長は咳払いとともにナナを咎める。気がつけば教室中の皆がナナのことを注視していた。愛想笑いを浮かべ、「どもども」といった感じでナナは謝る。

 

「それ本当!?」

 

 ひそひそ話でニコルに囁く。引っ込み思案で大人しいように見えて、ニコルはメイド学科一年生、随一の事情通である。意外なことに顔も広い。そんなニコルがもたらした情報なのだから、確度は高いといわざるを得なかった。

 

「うん、馬術部と美術部に入ってる子から聞いた話だし、間違いなさそう」

「へ、へぇ……つき合ってるんだ、女の子どうしで……」

「それでね、美術部に入ってた子が、見ちゃったんだって……」

 

 少しばかり熱の篭もったニコルの囁きと吐息が、ナナの耳のそばまで迫ってくる。ぞわっとした感覚に、ナナは全身をぶるっと震わせた。

 

「美術部の倉庫で、二人きりで……ってしてたんだって」

「え!!!?!?!?! そんな大胆なことを!!?!!?!?!」

「静粛に!!!」

 

 級長の鋭い声が飛んでくる。ナナがまたしても大きな声を出したためだ。教室中の皆が再びナナのことを注視する。ぎろりとこちらを睨んでくる級長の視線が、ひたすらに痛い。

 

「……えー、では、他に案のある方はいませんか」

 

 気を取り直した級長が言う。「うーん……」「うーむ……」といった思案の呻きは教室の方々から聞こえてくるものの、主立った反応はない。そこで級長は、生徒を順々に指名して意見を聞いていく方針に切り替えたようだった。

 

「ジュリアさん」

「はい」

 

 堅物を絵に描いたような様子で、表情ひとつ変えることなくジュリアが応じた。

 

「何か妙案はありませんか?」

「ありません」

 

 間髪入れぬ即答だった。あまりの取りつく島のなさに、思わず級長は言葉を失ったようだった。

 

「ジュリア」

 

 エリザベートの声がジュリアに飛ぶ。飼い犬を叱る厳格な主人のごとき声音だった。

 

「級長はあなた個人の意思を聞いています——あなた自身の意思を応えなさい」

「私個人に意思など存在しません。私はお嬢の意思に従うのみです」

 

 にべもない返答にエリザベートは頭を抱え、級長に向けて謝罪した。

 

「ごめんなさい。あの子にはあとで厳しく言っておきます……」

 

 エリザベートが何か言葉を発したり動いたりするたび、クラスの子たちがその挙措に注目している様が見て取れた。冷徹な声音を発したり、自らの落ち度を謝罪したりする所作さえ、見る者の溜息を誘うのに充分であるようだった。

 メイド学科のみならず、この学園において、容姿端麗なエリザベートのファンは実に多かった。困ったような顔をしながら額に指先を当てて考え込んでいるいまのエリザベートの様子でさえ、確かに彼女ほどの美貌ならば絵になった。

 ——気を取り直した級長は、続けて幾人かに企画案を聞いていった。そしてリサがとんでもない爆弾を投下したのは、そうしたタイミングでのことだった。

 

「私は自分の意思をはっきりと述べさせてもらうわ」

 

 とリサは言った。級長に意見を求められ、立ち上がった彼女はジュリアの方に視線を送る。

 

「どこぞの躾のなってない貴族サマの侍女とは違ってね」

 

 一言余計な嫌味——としかいいようのない言いっぷりであった。ジュリアがリサの方を睨んで言った。

 

「貴様、お嬢を侮辱するつもりか……」

「おお怖、はいはい済みませんでした。私が悪かったです、貴族サマ」

 

 売り言葉に買い言葉。またしても余計な嫌味をリサは発する。そればかりか、相手を小馬鹿にしたような表情さえ浮かべていた。心なしか、ジュリアの鉄面皮同然の表情が、わずかに動いたような気配がした。

 一触即発——場の空気が凍りついた。ジュリアはリサの方を睨み続け、リサは「何か文句あんの」とでも言わんばかりの顔でジュリアの視線を受け止め続けた。

 オホン、と級長がわざと大きめの咳払いを響かせる。二人の応酬を断ちきるための仕草だった。

 

「……皆さん長時間の会議で疲れているようですので、今日はこのくらいにしておきましょう。明日、会議を再招集しますので、放課後ご参集のほどよろしくお願いします」

 

 皆が席を立ち上がる中、ナナはリサの方へ視線を送る。リサは黙したまま机の上を見つめていたかと思うと、突如立ち上がって足早に教室を去っていく。ジュリアの方へ視線を移すと、「ちょっと来なさい」とエリザベートに手を引かれ、教室から連れ出されているところだった。後味の悪い会議になったと思いつつ、ナナは前日の夕食でカエデから聞いた言葉を呼び起こす。

 

《最近のリサちゃんは何か余裕がなさそうな感じがして、見てて危なっかしいかなって思うんだ……》

 

 確かにそうだとナナは思った。リサはルームメイトで、友だちで、同級生だ。いったいぜんたい、彼女は何をそんなに焦って毎日イライラしているのか、ちゃんと確かめねばならないだろう。

 さもなくば、リサはきっとどこかで暴発同然のことをしでかしてしまう——そんなふうに思うのは、果たして考えすぎなのであろうか。ナナは自問しながら、ニコルとともに帰途へついた。

 

 ~~~

 

 カエデやナナの懸念通りというべきか、ついに事件は発生した。会議の翌日、武芸の実習講義でのことだった。

 ナナたちメイド学科の一年生は、入学初月から翌月にかけての約一ヶ月間、基礎体力をつけるための訓練を徹底的に仕込まれる。そうした新兵教練さながらの過程が終わったかと思うと、今度は基本的な型もそこそこに実戦的な稽古へ移ってゆく。まずは素手での攻防と、木剣の扱いを学ぶのだ。

 講師はかつて教導隊に所属していた元軍人だというから、施される訓練は本格的かつ厳しいものに相違ない。

 そんな鬼教官である講師は授業のはじめに生徒たちを整列させたかと思うと、ランダムな二人組を編成しはじめた。基本の型をいわゆる『組み手』で確認させて学ばせるためだ。

 ナナはカエデとのペアになり、ニコルとリンはそれぞれ別々の生徒とペアになった。そして何と——リサとジュリアがペアになってしまったのだ。これには皆が内心驚き、しかるのちに戦慄した。エリザベートに至っては、珍しく狼狽えたような様子さえ見せていたほどだった。

「それだけはまずい……!」クラスの皆がそう思ったに違いない。だが二人はペアになり、『組み手』の演習をはじめてしまうのだった。

 

 ~~~

 

 武芸実習が終わったあとの更衣室。ジュリアは身体の表面にまとわりついた汗を拭い、制服を着て身だしなみを整える。そこにリサが勢い込んでやってきた。そうした様子のひとつひとつを、ナナは逐一思い出すことが可能だった。

 

「あんた……さっき手加減してたでしょ! 私を怪我させないようにって、手加減してた……!」

 

 リサは大声を上げた。もの凄い剣幕といって差し支えなかった。屈辱に堪えきれず怒り狂っている——そう形容するのが相応しい、まさしく憤怒の形相だった。

 実際、リサは屈辱という屈辱を味わっていた。演習中、リサはジュリアの技で幾度となく床へたたき伏せられ、地を這う羽目になったのだ。なおリサの反撃は、ジュリアに一発も入らなかった。つまり、二人の実力差は歴然だった。それでいてなお、ナナたち素人目にも、ジュリアが不必要なまでにリサへ手加減しているのが見て取れた。それは、あまりに残酷なワンサイド・ゲームだった。

 

「お嬢から、一般人に怪我をさせてはならないと厳命されていますので……」

 

 リサの詰問に対し、にべもなくジュリアが言い放った。リサの方を見ようともしない。その態度が、リサの怒りへ火をくべる結果となってしまった。一般人——とりわけその言葉がまずかったのだ。

 もしその場にエリザベートがいたのならば、ジュリアの言葉を諫め、また同時にリサを宥めることができたであろう。だが不運なことに、その場にエリザベートはいなかった。レディントン先生から職員棟まで呼び出され、一足先に更衣室を辞去していたのだ。

 

「何よ! 口を開けばお嬢お嬢お嬢って! 没落貴族の出のくせに!」

 

 リサがこれまでにない大声で怒鳴り散らした。いまにも掴みかからんとするばかりの剣幕に、更衣室の皆がぎょっとなって二人のことを注視した。ナナ、ニコル、リン、カエデも同様だった。

 リサの言葉を聞いたジュリアが表情を変えたのが、はっきりとわかった。いつもの無表情に、ほんの少しだけ怒りの感情が覗いていた。没落貴族——とりわけその言葉がまずかったのだ。

 

「何ですって……?」

 

 今度はジュリアの顔から、先刻まで覗いていたはずの怒りがすっと消えた。もとより表情らしき表情などない少女であったが、そこから更に人間らしい機微を削いだかのような表情に変化したのだ。そのあまりの迫力に、リサは思わずたじろいだようだった。だが、いまさら引くわけにはいかなかった。

 

「……聞こえなかったようだからもっぺん言ってあげる! 没落貴族サマがお嬢だの何だのって今さら特権階級ぶっちゃって……私が『一般人』ですって? あんたたち没落貴族のそういうところが気にくわないって言ってんのよ!」

「それ以上お嬢を侮辱するな!!!」

 

 そう言い放ち、ジュリアがリサの右頬めがけて手袋の片方を投げつけたのは、ほぼ衝動的な行為にすぎなかった。自らが仕える主人の家柄を、一度ならず二度、三度までも『没落貴族』呼ばわりされたその瞬間、ついに我慢の限界が訪れたのだ。もはや二人の口喧嘩は引き返すことのできない一線を超えつつあった。ここで止めなければ、取り返しのつかないことになる——ナナは意を決して二人の間に割って入った。

 

「やめて! 喧嘩はやめて!」

 

 リサとジュリアが、揃ってナナのことを睨みつける。怖い——ナナはそう思いつつも踏みとどまった。ここで引いては、二人の間に割って入った意味がないからだ。

 

「ね、やめようよ……」

 

 ナナの脚は子鹿のように震えている。やっぱり怖い——だが、友だちのリサがクラスメイトと喧嘩するのを黙って見ているわけにはいかなかった。ニコルたちは教師を呼びに外へ走っている。喧嘩を止めに入る大人が、いずれここまでやってくるだろう。それまでの間、何とかして二人を説得し続けなければならない。

 

「貴様はこいつの肩を持つのか……? お嬢を侮辱した、こいつの肩を……」

 

 ジュリアの怒りの矛先がナナに向かう。すさまじいまでの怒気に気圧されつつも、ナナは毅然として応えた。

 

「リサちゃんは友だちだから……見過ごせないよ、こんなこと……」

 

 それは、喧嘩するのをやめて欲しいというナナの純粋な想いから出た言葉だった。だが不幸にも、ジュリアはそれを別の意味に捉えてしまった。「ナナが友人であるリサに加勢した」と捉えたのだ。それはまさに、杓子定規なジュリアの性格がゆえの誤解だった。

 そして——更なる不運が重なった。

 

「ねぇ、これ、ジュリアちゃんのでしょ……」

 

 ナナは足下に落ちていたジュリアの手袋を拾い上げた。激高したジュリアが、先ほどリサの頬にめがけて投げつけた手袋だ。

 

「ちょっと、何してんのあんた!」

 

 リサが慌てた調子で、ナナの肩を手で掴む。

 

「……貴様、どういうつもりだ。自分が何をしているのか分かっているのか?」

 

 ジュリアがナナを睨んで言った。一方、ナナは二人の言っていることの意味がわからなかった。落としものを拾ってあげるのは当然のことじゃないか——そう言いたかったが、上手く言葉が出てこない。いま自分は二人から何を問われているのか、とっさに理解することができなかったからだ。

 

「え、どういうつもりも何も……」

 

 床の埃がついた手袋をハンカチで丁寧に拭い、ジュリアに向けて差し出しながら、困惑とともにナナは応えた。

 

「はい、これ」

「あくまで貴様はそいつの味方をするというわけか……」

 

 ぽつりとジュリアが呟いた。

 

「いいだろう。一週間後、礼拝堂そばの馬場で待つ」

 

 手袋を受け取ったジュリアは、しばし思案していたかと思うと、それだけ言って更衣室から立ち去っていった。あとに残されたナナとリサは、その場に立ち尽くしてジュリアの背中を見送ることしかできなかった。

 そして、少しばかりの沈黙が流れたあと——。

 

「バッッッッッッッッッッッカじゃないの!!!!!!」

 

 リサの全力の怒鳴り声が、ナナの鼓膜をビリビリと震わせた。喧嘩を止められてほっとしたと思っていたナナは、心臓が跳ね上がるくらいびっくりして、涙目でリサの方へ向き直った。なぜリサが激怒しているのか、とんと見当もつかなかったからだ。理不尽に怒られたとさえ、一瞬だけとはいえ思ってしまったほどだった。

 

「あんた、いま自分が何をやったか分かっているの!?」

「へ?」

 

 詰問に対し、ナナは間抜けな声を上げることしかできなかった。自分が何をやったか——? いったい何をやってしまったというのだろうか。雰囲気からして、とんでもないことをやらかしたことは間違いない。ナナはそう思ったが、肝心の何をやらかしてしまったのかが分からない。そんなナナの様子を見て、リサは大仰に溜息をつき、そして言った。

 

「あんたは、あのジュリアって子との決闘を、いま、ここで、受諾しちゃったの!」

「え……え???」

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