第4話

​「彼女が馬に乗れた理由」

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「あんたは、あのジュリアって子との決闘を、いま、ここで、受諾しちゃったの!」

「え……え???」

 

 ナナは素っ頓狂な声を上げた。決闘——? 受諾——? 何のことだかわからない。だって自分は、ジュリアの落とした手袋をただ拾い上げて返してあげただけなのだ——そういった旨のことをナナが言うと、リサは深々とした溜息をつき、「あんたね……」とあからさまな呆れ顔を浮かべてみせた。

 

「決闘を申し込む相手めがけて自分の手袋を投げつけて、相手がそれを拾い上げれば、両者ともに決闘へ合意したと見なされる——貴族同士の流儀ってやつよ。まさかそれを知らないで手袋を拾い上げたってわけ?」

「……」

 

 リサが言っていることの意味を、ナナはようやく理解しつつあった。てっきり、ジュリアは怒りのあまりリサに手袋を投げつけたのだとばかり思っていた。いや、その解釈自体は間違ってはいないのだが、手袋を投げつけるという行為に「相手に決闘を申し込む」という意味が含まれているとは、これっぽっちも知らなかったのだ。ナナは青ざめた顔で「どうしよう……」と呟いた。

 

「どうしようも何も、いまさらどうこうできる話じゃないわよ。あんたは決闘を申し込まれて、事実としてそれを受けた……言ってる意味、わかるわよね」

「えっと……ジュリアちゃんに謝れば、許してもらえるかな……?」

「馬鹿。一度受けた決闘は断れない——それが貴族サマのルールなの。あんたはどうあっても撤回できない約束事を引き受けちゃったってわけ。そこまで説明しないとわからない?」

 

 はっきりとそう言われたことで、ナナはようやくことの重大さを理解するに至った。なおも顔色を失うナナのそばまでやってきたニコルが、「ナナちゃん……」と彼女の手を握って慰める。ナナは「どうしよう~」とニコルに縋ることしかできなかった。

 

「何があったかと思えば……」

 

 レディントン先生の声が聞こえた。リサとジュリアの喧嘩を止めようとしたニコルが、職員棟から連れてきたのだ。彼女も彼女で、リサと同じような呆れ顔を浮かべていた。

 

「先生、私、どうすれば……」

「ま、決闘の申込みを受けた以上、やるしかないだろうな——おいエリザ、この学園の『伝統』を言ってみろ」

 

 ナナの問いかけへ応えたレディントン先生は、背後に付き従える生徒へ向けて声をかけた。ジュリアの主であるクラスメイト——エリザベート・アインフェリアだった。彼女もレディントン先生とともに、職員棟からここまでやってきたのだ。

 

「……決闘の申込みと受諾が成立した両生徒は、一週間後に所定の方法で勝敗を決さなくてはなりません。また勝者は敗者に対し一つだけ絶対服従の命令を下すことが許される……。そして不戦敗もしくは敵前逃亡をした者には、放校相当の処分が科されます」

「そうだ」

 

 エリザの回答に、レディントン先生は首肯した。

 

「手袋を投げて、拾って、一度成立した決闘は何があっても断れない。そんな気障(きざ)ったらしい段取りは貴族同士の世界におけるルールにすぎんが、この学園では少々趣が違っている。ファルテシア学園は元々貴族や聖職者のための教育機関でな。そこで学んでいた貴族の子息たちが、手袋を投げつける決闘の申込み方法を学園内に広めたのだそうだ。いまでは平民同士でも、喧嘩したい相手がいたときは皆そうしている。まぁ決闘なんて近頃は滅多に起こらんがな……威勢の良いヤツが減ったせいかな」

 

 レディントン先生はそう言ってナナの肩をポンと叩いた。

 

「ナナ・ミシェーレよ、せいぜい頑張れ。くれぐれも死なないようにな」

「そ、そんな……」

 

 ナナは哀れなほど震えだし、いまにも大粒の涙を流しそうな顔で言った。

 

「決闘ってことは……ジュリアちゃんと戦わなきゃいけないんですよね……そんなの、ジュリアちゃんとそんなこと……できないよぉ……うわぁ~~~~ん」

 

 ついに泣き出してしまったナナを見て、エリザが「何とまぁ人の悪い……」といった様子でレディントン先生を見て溜息をついた。リサやニコルも同様の反応だった。

 

「お前が何を勘違いしてるのか知らんがな、どうやってジュリアと戦うのか、わかってるのか?」

「へ?」

「ジョストだよジョスト。この学園で決闘っていったらジョストだろう。お前やれんのか、ジョスト」

「ジョスト?」

 

 耳慣れぬ単語をレディントン先生の口から聞き、ナナはまたしても素っ頓狂な声を上げた。

 

「いいか。これから決闘までの一週間、お前は死にもの狂いでジョストの修練を積まなきゃならない。ジョスト未経験なんて理由は通用せんからな。決闘当日、たとえば馬に乗れないなんてことがあって試合が不成立になったら不戦敗と見なされる——その結果どうなるか。さっき説明した通り、放校処分だ」

「えーーーっ???」

 

 無慈悲なその言葉ひとつをもって、ナナにとっても地獄の一週間——ジョストの特訓がはじまったのだ。

 

 ~~~

 

 ジョスト。またの名を『馬上槍試合』。騎士の腕比べを目的として行われる、一騎打ちを模した競技である。ルールは比較的シンプルだ。鎧を纏った両者がそれぞれ馬に跨がって相対し、規定の距離を疾駆する。そして、すれ違い様に手にした長槍(ランス)で相手を突く。勝負は一般的に三本制で行われ、審判による採点のもと「技あり」「有効」などの加点方式で勝敗が決まる。ただし相手を落馬させればその時点で勝ちとなり、試合が決まる。

 古くは実際の剣や槍、または手斧などを使って文字通りの真剣勝負が行われていたというが、無論、いまでは競技として整備され、使用する長槍(ランス)も木製のものが使われる。だが木製とはいえ刺突時の衝撃が強いこと、落馬のリスクが常につきまとうことから、事故が絶えない危険な競技としても知られている。それらをひととおり説明し終えたレディントン先生は、

 

「いまさら撤回などできんのだ。腹を括るしかあるまい。お前とて戦(いくさ)に赴くメイドの端くれだろう。遺書でも書いておいたらどうだ」

 

 などと言い放った。

 そうしてレディントン先生とエリザは更衣室から去って行き、リサもそれに続き、他のクラスメイトたちも「がんばれ」「応援してるからね」「ジュリアのヤツをギャフンと言わせてやれ」「遺言状があったら預かるよ」などナナにめいめい好き勝手に声をかけて去っていった。中には「決闘だ! 賭け屋(ブックメーカー)のクレア先輩に報告しないと!」や「ジュリアってジョスト経験者じゃなかった? あの子勝ち目ある?」「賭け成立すんの?」などと言うクラスメイトたちもいた。

 後に残されたのは、ナナとニコルだけだった。

 

「何とかしなきゃ……」

 

 ようやく思考を落ち着かせ、ナナは考えに考える。決闘の不戦敗はすなわち敵前逃亡を意味し、放校処分に相当する。試合不成立の場合も同様だ。自分の軽率な行動が原因で、メイドになるという夢を絶たれてしまうのだけは避けたかった。

 自分の力で、このピンチを何とかしなければならない。ナナはそう思った。だが考えても良いアイディアなどひとつも出てこなかった。そこへニコルが恐る恐るといった様子で声をかける。

 

「一応きくけど……ナナちゃん、ジョストってやったことある?」

「ない……」

「馬術は?」

「それもない……近所の家にいたロバなら乗ったことあるけど……」

「やっぱり。貴族の家の子じゃないと、どれも経験なんてないよね……」

 

 一連の返答を確認したニコルはそう言って嘆息し、しばし思案していたかと思うと、今度は意志のこもった瞳でナナの方へ向き直った。

 

「ねえナナちゃん、馬術部の人に掛け合ってみよう? 馬に乗る練習させてって、お願いするの。決闘のときに乗る馬も準備しないと」

「え、でも、ケリィちゃん以外馬術部の知り合いなんていないよ……」

「でも、馬に乗れなきゃはじまらないよ。大丈夫。私に任せて」

 

 ニコルは決意とともにそう言って、放課後、ナナの手を引いて学園敷地の外れまで向かって行った。馬術部を訪問するためである。

 王立ファルテシア学園馬術部は王国の中でも名門と名高く、ジョストに至っては名実ともに王国最強と目されていた。そして一般の学生では、その厩舎や馬場が集まる区画に立ち入ることすら、特別な許可なしにはゆるされなかった。王国の軍馬育成施設も兼ねる馬術部関連施設について、他国の留学生においそれと見せてはならないというのがその理由である。

 そんな区画にいまからアポなしで乗り込むとニコルは言う。彼女の胆力にナナは内心驚嘆すると同時に、一体どんな秘策があるのだろうと疑問に思った。

 ナナが現状解決すべき課題はいくつかある。さしあたっては、「決闘時に乗る馬を確保すること」「馬を操るスキルを身につけること」の二つだ。

 「ランスを扱うこと」更には「乗馬とランスの扱いを総合した、ジョストという競技そのもののスキルを身につけること」は、この際後回しで良い。試合当日、馬に跨がり相手と相対することさえできれば、不戦敗という最悪の結果だけは避けられるからだ。

 だが、最優先事項である二つの課題をクリアするためのハードルは高かった。

 まず決闘でジョストの試合をする場合、決闘用の馬は自分自身で所有している場合を除き、馬術部の知人——それも部内において決定権を持つ上級生——経由で調達するのが常であり、乗馬そのものは一年次後期からはじまる実習授業で学ぶのが常だった。

 ナナはどちらの条件も満たせそうになかった。馬術部の知人といえばクラスメイトのケリィが該当したが、彼女へ相談を持ちかけるも、

 

「一応掛け合ってみるけど、期待しないでくれよな……まだ新入りのあたしに決定権なんかないからさ……」

 

 との返答であった。更に乗馬の実習授業は一年次前期(冬学期)のいまは受講すらしていない状態である。問題外だ。

 一方ジュリアは貴族の出であり、イタリアの家から連れてきた馬をおそらくは馬術部厩舎に預けているはずで、乗馬の心得については当然のようにあるだろう。学園に在籍する貴族の生徒は皆同じようなものだったから、考えずともわかることだ。

 ニコルの情報網によると、ジュリアは母国イタリアにおいてジョストの試合で幾多もの実績を上げている選手とのことだった。そんな彼女と素人同然のナナがジョストで戦うとなれば、結果は火を見るよりも明らかだ。

 そのためニコルは、「勝たなくていい、ただし不戦敗は何がなんでも避ける」という方針を早々に打ち立て、ナナを導くようにして馬術部の厩舎区画へ向かったのだった。当日馬に乗ることさえできれば、放校という最悪の結末だけは回避できる。

 

「うわぁ、すごい……」

 

 馬術部の区画へ着くなり、ナナは思わず感嘆の声を上げてしまった。それくらい素晴らしい施設だった。真新しい厩舎に広大な放牧地、運動用の馬場も良く整備されており、遠くまでなだらかに続く丘には埒(らち)のついた運動用の走路まで用意されていた。ちょっとした牧場並みの設備といえた。

 

「ごめんくださーい!」

 

 施設の威容に二の足を踏んでしまうナナを置いてきぼりにしながら、ニコルは足早に厩舎の入口へ近づいたかと思うと、声を張り上げて言った。普段内気なニコルのどこからそんな大きな声が出てくるのかと思うほどの声量だった。

 

「私、メイド学科一年のニコル・ベイカーといいます。ミス・オブライエンはいらっしゃいますか?」

 

 中から出てきた上級生の馬術部員に対し、普段の様子からは想像もつかないようなハキハキとした声でニコルが言った。

 

「部外者がミス・オブライエンに何の用だって?」

「急ぎのご相談があり、お目にかかれないかと」

「帰れ帰れ、部外者の相手してる時間はないもんでね。それにミス・オブライエンは取り込み中だ。アポ取って出直してきな」

「まぁまぁ、そう仰らず——」

 

 取りつく島のない返答にもめげず、ニコルはなおも食い下がる。と、そのときだった。

 

「おっ、ニコちゃん!」

 

 上級生の馬術部員とニコルがやり取りをしているところへ、厩舎内から声がかかった。大人の女性の声だった。

 

「こないだはシュークリームありがとうねー! 料理研究会のお茶会、今度また誘ってよ」

 

 メイド服に身を包んだポニーテールの女性が、フォーク状の農具と飼葉桶を担いで登場した。ニコルの言っていたミス・オブライエンとはこの人のことなのだろうとナナは思った。なぜならその女性が現れるなり、先ほどまで横柄な態度を取っていた上級生の馬術部員が急にかしこまったような素振りを見せたからだ。馬術部の偉い人——それも顧問や教師に類するような、部に属する生徒たちを束ねる存在に違いないとナナは思った。

 

「どういたしまして、ミス・オブライエン。お茶会の件、是非ともまたご一緒させていただきたいです」

 

 ニコルが微笑みを返すと、例の上級生の馬術部員はそそくさと厩舎内へ退散していった。急な展開にナナが目を白黒させている間も、ニコルはミス・オブライエンなる人物と楽しげに会話を弾ませる。

 

「——ところで、そこにいる子は?」

 

 ミス・オブライエンの視線がナナを見据える。

 

「わ、私、ナナ・ミシェーレっていいます! あ、あの! 今日は相談があってお邪魔しました!」

「ふむ……相談、ね」

 

 顎に手をやってミス・オブライエンは思案する。「帰れ」と言われるのではないかと、ナナは内心びくびくした。だが、続いて出てきた言葉は予想外のものだった。

 

「二人とも中でお茶でもどうだい? ちょうど休憩を取ろうと思っていたんだ。ニコちゃんのお眼鏡にかなうものを出せるかどうかは、自信がないけれどね」

 

 ~~~

 

 ミス・オブライエンに導かれるまま馬術部の建物へ入ったナナは、「一体どういうからくりなの?」とニコルにひそひそ声で話しかけた。

 

「料理研究会のお茶会でたまに会うんだ。私の作ったお菓子を気に入ってくださってるみたいで」

「あのミス・オブライエンって人、馬術部の顧問の先生なの?」

「そうだよ。乗馬の名手なんだって」

 

 ニコルはそう言ってにっこりと微笑んだ。ナナたちは執務室兼応接室のような部屋に通され、「散らかっていて申し訳ないが、さ、座って」とソファへの着座をすすめられた。

 

「おいキャス、この子たちにお茶と菓子を頼む。私の分も忘れずにな」

 

 部屋の奥——机の上へ堆(うずたか)く積まれた紙の束の向こう側へ、ミス・オブライエンは声をかけた。

 

「へいへーい。ノーラ先生はいつも人使いが荒いねぇー」

 

 ガサッと音を立てて紙の束が崩れ落ち、その狭間からぼさぼさ髪の少女が眠たげな顔を覗かせた。制服からして、メイド学科の上級生のようだった。それにしても目の下の隈がひどい。まるで何日間も徹夜しているかのような有様だった。

 

「彼女は馬術部の部員ではなく、私の研究の助手を務めてもらっている生徒だよ。三年生、君たちの学科の先輩だ。騎士の家系の出身だそうだが、とてもそうは見えないだろう?」

 

 ミス・オブライエンが笑うと、先ほどキャスと呼ばれていた少女は、「失礼な人ですねー」と手をひらりと振って部屋の中から退出する。三人分のお茶を用意しにいったのだろう。

 

「研究——何の研究をされているんですか?」

 

 ナナが問うと、ミス・オブライエンは目をきらりと輝かせる。

 

「血統書(スタッド・ブック)の編纂だよ。馬の血筋とその起源を遡り、探求するのさ。ジョッキー・クラブ事務局長であるジェームズ・ウェザビー氏たっての依頼でね、今後十年以内に世界初の血統書(スタッド・ブック)をまとめ上げる大事な仕事さ——っと、自己紹介が遅れたね」

 

 ミス・オブライエンはナナの方を真っ直ぐに見据えて言った。

 

「私はノーラ・オブライエン。出身はアイルランド。この馬術部の顧問を務める教師でもあり、〈協会〉に正式な認可を受けた〈コミュニア〉でもある」

「乗馬がお上手ってニコちゃんから聞きました。馬を駆るメイドさん、格好よくて憧れます!」

「はは。ありがとう」

 

 ミス・オブライエンは少しばかり照れくさそうな顔で、ブルネットの髪を指先でポリポリと搔いた。

 

「元々はこの学園の生徒でね、そこでジョストを叩き込まれたんだ。君たちの担任のアヴリルとは、よく些細なことで喧嘩をしてはジョストで白黒つけたものさ」

「レディントン先生と知り合いなんですか!?」

 

 驚いたナナは声を上げた。

 

「メイド学科の同級生だったよ。〈仮ライセンス〉を取った時期も一緒なら、〈コミュニア〉の徽章を授かった時期も一緒さ。〈協会〉に入ってからも一緒に仕事をして、軍にも一緒に派遣された。いわゆる腐れ縁ってやつだね。あいつは貴族の出だからプライドばっかり高くて、私とは喧嘩が絶えなかった。ま、三年間通じて、ジョストの決闘は私が余裕で勝ち越したがね」

「仲が悪かったんですか?」

「そりゃーもう。当時のあいつの横暴っぷりは学園内じゃ有名だったからね。いっつも取り巻きを何人も引き連れて偉そうにしていたものだから、一匹狼の跳ねっ返りだった私とは衝突しっぱなしだったよ。一年生のいまくらいの時期かな。あいつに決闘を申し込まれたときのことはいまでも覚えている。うん、懐かしい話だ」

 

 決闘——その言葉にナナの身体がびくんと跳ねる。折良くというべきか、そのタイミングでキャスが三人分のティーセットと菓子を運んできた。

 

「おっと、昔話を聞きにきたわけじゃないんだろう? 相談ってやつを聞かせて貰えないかな」

 

 キャスに礼を言ったミス・オブライエンが、ティーカップの中身を傾けながら問うた。

 

「実は——」

 

 ナナが決闘に臨まなければならなくなった顛末を聞き、ミス・オブライエンは声を上げて爆笑した。

 

「君面白いな! そんな決闘は前代未聞だ! きっと学園新聞の連中は君のことをこぞって取材しにくるだろう! 学園はじまって以来の珍事だろうからね!」

 

 ナナが少しだけ悲しげな表情を浮かべると、ミス・オブライエンはなおも腹を抱えて笑いながら「悪い、悪い」と謝った。

 

「で、決闘当日に乗る馬を手配できないか、と。それと併せて乗馬の練習もしたいってところか。うーん、参ったなぁ……」

 

 ミス・オブライエンは頭を抱えた。その様子を見て、ナナはまたしても不安に襲われた。断られるのではないかと思ったからだ。

 

「君の度胸に免じて馬を工面してやりたい気持ちは山々なんだ。けれど練習用の大人しい馬は二年生と三年生の実習で出払っていてね。貸し出せる馬はいまうちの馬房にいないんだよ」

 

 そして、しばし思案していたミス・オブライエンは、唐突に顔を上げたかと思うと、続いてこう言ったのだった。

 

「一頭だけいるにはいる。おすすめはしないけどね……」

 

 と。

 

 ~~~

 

 ナナとニコルを伴って厩舎の中を進むミス・オブライエンの足取りに迷いはない。途中、すれ違った部員たちはミス・オブライエンの姿を認めるなり動作を止め、「お疲れ様です!」と大きな声で挨拶をした。その中にクラスメイトのケリィがいて、彼女はナナとニコルを見るなり目を丸くして驚いていた。部外者立ち入り禁止の厩舎内を、ナナたちが馬術部のボスを連れ立って歩いていたのだから、驚くのも無理はない話だった。

 馬の大きな嘶(いなな)きと、ほわんと漂う馬の匂い。そういったあれこれに包まれながら、ナナたちは目的の馬房まで移動する。そこには一頭の芦毛の馬が寝転んでいた。それなりに歳を重ねているためか、生まれたばかりの頃は濃い灰色に違いなかった体毛の色は、ほとんど真っ白に生え替わっている。

 

「こいつの名前はフォックスハント。由緒正しき血統をした女馬だ」

 

 フォックスハントと呼ばれた牝馬は、馬房の中からぎろりとナナたちのことを睨みつけた。

 

「品種は競走用馬(ランニング・ホース)。かの名馬エクリプスの子さ。元は貴族の持ち馬で、エプソムダウンズやニューマーケットのヒート・レースに出場していたんだが、騎手を振り落とす悪癖のせいでうちの厩舎に売り払われた。気性難は折り紙つきだ」

「エクリプス——聞いたことがあります。とっても有名なお馬さんだったって」

 

 ミス・オブライエンの発したワードに、ニコルが反応した。

 

「かの〈屠殺者カンバーランド〉の生産馬で、名前が示す通り日食の起きた日に生を受けた、ファルテシア王国最速のランニング・ホース……それがこいつの父親のエクリプスだ」

 

 少しばかり熱を帯びたかのような調子で、ミス・オブライエンが言う。

 

「曰く、「唯一抜きんでて並ぶ者なし(Eclipse first and the rest nowhere)。ヒート戦では二着馬を二四〇ヤード以上突き放して圧勝を続けた、名馬中の名馬だよ」

「そんな名馬の子どもなら、きっと足も速いんですよね」

 

 ニコルが応えると、ミス・オブライエンは渋い顔を浮かべた。

 

「エクリプスは王国で最も俊足だった馬に違いないが、同時に最も気性の荒かった暴れ馬でもある——そんな父親から、フォックスは気性難をそっくりそのまま受け継いでしまったんだろうな。馬術部の腕利きたちをもってしても、こいつを乗りこなすのは不可能だった。王国広しといえど、フォックスに乗れるのは私を含めて数人といったところだろう。気性の矯正すらままならない。それくらいの荒馬だ」

 

 言われている内容を理解しているのかしていないのか、馬房の中のフォックスハントは大口を開けてあくびをした。

 

「よって、こいつにはいま乗り手がいない。だから君に貸し出すことは可能だ。しかし、初心者が乗れる馬じゃ到底ない。それでもやる、というのなら話は別だが……」

「この子に乗ります! だから乗馬を教えてください!」

 

 ナナは決意の篭もった声で言った。他に手がないのならば、やるしかない。そういう気持ちの入った声だった。どのみち、馬に乗れなければ不戦敗とみなされ放校処分の憂き目に遭うのだ。メイドになるという夢を叶えるためにも、ここで得たチャンスをものにしておく必要があった。それに何より、ニコルがここまで渡りをつけてくれた以上、あとは自分が頑張るしかない——ナナはそう思った。

 

「何があっても責任は持たないぞ。それでもいいのか?」

「はい!」

 

 そして、三日間に渡る地獄の乗馬訓練がはじまったのだ。

 

 ~~~

 

「ちょっと、ちょっと、止まってーーーーー!」

 

 叫ぶなり、ナナは鞍の上から放り出された。フォックスに乗り始めてから三日が経っていた。しかし馬との意思疎通など、依然として存在しないも同然だった。騎手であるナナの制止を聞かず、フォックスはその場でぐるぐると右回りの回転を続け、しまいには前脚を上げて大きくその場に立ち上がり、吠え声同然の嘶きを上げたかと思うと、ナナを馬上から落としたのだ。

「いったーーーい!」

 

 尻餅をついたナナが涙目になる。そこへ駆け寄ったフォックスは、長い舌でナナの顔をべろりと舐め上げ、小馬鹿にした表情さえ浮かべていた。ふんす、という特大の鼻息が顔に吹きつけられるのだから堪らない。

 

「もーーー! 言うこときいてよーーー!」

 

 ミス・オブライエンから教えられた通りに馬を操ろうと試みるも、フォックスは反抗心を剥き出しにしてナナをしつこく振り落とそうとするのだった。まともに走らせることができた試しなど一度もない。

 ナナは毎朝、馬術部の行程に混ぜて貰いながらフォックスに乗る練習をしていた。夜も明けきらないうちから馬房へ向かい、汚れた寝藁を新しいものと交換してやり、曳き運動と騎乗のためにフォックスを馬房から出してやる。しかし、結果は惨憺たるものだった。曳き運動ではいとも簡単に引き摺られ、鞍に跨がれば落馬を何度も繰り返し、しまいにはフォックスから小馬鹿にされる。だがナナは諦めなかった。

 早朝の練習を終え、夕方には日が暮れるまでまたフォックスに乗ろうと努力を続けた。ナナはボロボロになりながら、乗馬の訓練を繰り返し続けたのだ。

 そして訓練三日目に突入した今日——徐々に日が西に傾く中、ナナはまたしても騎乗と落馬を繰り返していた。

 

「いったーーーい!」

 

 ナナは馬上から再び振り落とされる。乗馬よりもむしろ、受け身の取り方の方が上達しているという有様だった。

 

「まったく、見てらんないわね……」

 

 唐突に、馬場の外から声が聞こえた。リサの声だった。どういう風の吹き回しか、ナナの様子を見にきていたのだった。予想外の出来事に、ナナは目を丸くする。この三日、リサはナナたちと口さえ利かなくなっていたのだ。そのあまりにつっけんどんな態度に、ナナ自身も辟易していたタイミングだったのだ。

 

「リサちゃん!」

 

 ナナは思わず声を上げる。

 

「鞍の上ではもっと背筋を伸ばすことを意識しなさい。あと力みすぎ。馬の動きにまるでついていけていないわ。反動を首と背中で吸収すること。ハミの扱いや踵(あぶみ)の使い方も強引だから、もっと繊細にするよう心がけなさい——その馬、きっと乗ってる人間の姿勢を背中で見極めて技量を図っているんだわ。あんたは下手くそだから乗るな、って言ってるわけ」

「ありがとう、アドバイスしてくれるんだね! 何だか嬉しいな……」

「べ、別にそういうつもりじゃないわよ! 小さい頃、ちょっとだけ馬に乗った経験があるだけだから!」

 

 そういうのがアドバイスというのではないかと思いつつ、ナナは少しだけ嬉しい気持ちになったのが反面、心配してくれているのだろうかと申し訳ない気持ちになったのが反面、そんな心持ちになった。

 

「リサちゃん、馬に乗ったことあるんだね」

「実家で馬を飼ってたのよ。うち、田舎の農家だから……」

「そうなんだ! お馬さん飼ってたなんて、すごいね!」

 

 頑なに語ろうとしなかったフランスの実家のことを、リサは照れくさそうに口にした。そうしてようやく自分のことを語ってくれたリサに対し、ナナは笑顔で応えてみせた。

 

「じゃあ、教えて貰ったところを注意して、もう一回……!」

 

 気を取り直して、ナナはふたたびフォックスの背中に跨がった。今度は騎乗姿勢に細心の注意を払い、馬が歩くたびに発生する震動を上手く首と背中で吸収し、ハミと手綱もきわめてソフトに扱って——するとどうだろう。落馬せずフォックスを動かすことに成功したのだ。

 

「やった! やったよリサちゃん! やった——って、うわっ!」

 

 喜びも束の間。ナナを乗せたフォックスは、前脚を高々と天に掲げながら立ち上がった。「ブルッ」と野太い唸りひとつを上げ、フォックスは嘶(いなな)く。バランスを崩したナナはといえば、背中から地面めがけて一直線に叩きつけられてしまった。

 

「いったたたた……」

「もういいよ、諦めな。そいつ人を乗せられる気性じゃないよ」

 

 リサは溜息交じりに言う。諦念の篭もった声音だった。

 

「だめだよ……諦めたら、そこで、おしまいだよ……!」

 

 ナナの言葉に、リサは少しばかり心を打たれたかのような表情を見せた。もとはといえば、経緯はどうあれナナはリサの代わりにジュリアからの決闘の申し出を受けたのだ。そもそもあのときジュリアに食って掛からなければ、ナナはこんな目に遭わずに済んだのかもしれない——そう思えばこそ、リサの胸中には幾ばくかの「負い目」とでもいうべきものが発生していた。

 ナナに謝るべきか、いや、そもそもあれはナナの自業自得だろう——でも、発端となったナナの行動は、間違いなくリサのためを思ってのことだ。それをどう捉えるべきだろうか。馬鹿なやつ、と切って捨てるのはあまりに冷淡な行いではないのか——そんな葛藤がリサの胸のうちで渦巻いていたのだった。

 

「不戦敗は敵前逃亡、放校処分になるんだっけ」

「そうだよ……だから、絶対、ジュリアちゃんの……前に……立たなきゃいけないんだ……」

「メイドになりたい夢を諦めたくないから?」

「そう……だよ……」

 

 ナナは上半身を起こして、制服についた砂を払う。と、そのときだった。

 フォックスがナナのもとまで駆け寄ってきて、制服の腰についた人形を鼻先でつついたのだ。ナナが故郷の祖母から貰ったシュークリームを模した人形——彼女が密かに〈シュークリーム君〉と名づけてお守り代わりにしている品だった。

 

「これがほしいの?」

 

 ナナが言うと、フォックスは鼻を鳴らして頷いた。

 

「だ、だめだよ! これは大切なものだから、あげられないよ……」

 

 しかし、「いいからよこせ」とばかりにフォックスは〈シュークリーム君〉をしつこく鼻面でつつき続ける。

 その瞬間、ナナの脳裡に天啓じみた閃きがほとばしった。リサに向けて「この子見てて!」とフォックスを託したかと思うと、一目散に馬場の外めがけて駈けだしたのは、ほとんど衝動的な行動だった。

「ちょ、ちょっと!」と抗議の意思をあらわにするリサを振り返ることなく、徐々に茜色に染まりつつある空のもと、ナナはひたすらに走り続ける。目指すは寮の厨房だ。いままさに、ニコルがそこでシュークリームを焼いているはずだった。ボロボロになって帰ってきたナナを元気づけるため、ニコルは毎日ナナの大好物であるシュークリームを焼いているのだ。だとすれば——。

 それは単なる思いつきにすぎなかった。だが、ナナの中では妙な確信を伴っていた。根拠などない、直感に沿った行動ではあったものの、試す価値はあるだろう。そう思い、ナナは息を切らせながら走り続けた。

 

 ~~~

 

「ごめん、お待たせ!」

 

 すっかり茜色に染まりきった空を背景に、籠を手にしたナナがようやく馬場まで戻ってきた。その間、リサはフォックスの手綱を掴んで馬場の中央で立ちんぼになっていた。

 

「何、それ」

 

 呆れ顔でリサは言う。唐突かつ意味不明なナナの行動に、いまだ理解が追いついていないといった風情だった。

 

「シュークリーム! ニコちゃん特製だよ!」

「ちょっと、あんたまさか……」

 

 リサが言うのを最後まで聞かず、ナナは籠の中からシュークリームをひとつ取り出し、フォックスの口元に差し出した。少しだけ匂いを嗅いだフォックスは、ムシャムシャとそれを食べはじめ、満足げな鼻息を洩らす。

 

「よっと」

 

 そのタイミングを見計らい、ナナはフォックスに跨がった。するとどうだろうか。フォックスは手綱捌きへ機敏に反応し、ナナが意図した通りに動きはじめたのだ。常歩、そして軽速歩——先ほどまでの暴れようが嘘に思えるほど、フォックスは従順にナナの指示を聞いていた。騎手を振り落とす素振りさえ見せていない。

 

「やった! 乗れた! 乗れたよ! 君シュークリームが好きなんだね!」

 

 馬上のナナがキャッキャとはしゃぐ。フォックスは貰ったシュークリームを口の中でモゴモゴと転がしながら馬体を弾ませ、機嫌の良さそうな顔を浮かべて走っている。そんな人馬の様子を見て、リサは思わず「変なの」と吹き出してしまった。

 そこで、ナナはリサの笑った顔をはじめて見た。笑うと可愛い顔をするんだな、というのは少々失礼な感想に違いなかったが、いずれにせよ、何だかとても嬉しい気分になったのは確かだった。

 ふとリサと視線が合った瞬間、彼女は慌てた様子でぷいと顔を背けてしまった。

 

「馬に乗れただけでジョストができるわけじゃないでしょ、忘れてないでしょうね!」

 

 耳を真っ赤にしてナナを叱咤するリサの声音は、照れ隠しのそれに相違なかった。

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