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第6話

​「彼女が従者を愛する理由」

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 アインフェリア侯爵家とエインフェリア家は元来同一の家系であった。両家の分裂が発生するまで、エインフェリアは侯爵家の一員であったのだ。

 両家の系図を辿ると、十一世紀に南イタリアを攻略したことで知られるアルタヴィッラ家の血筋に行き着く。シチリア伯ルッジェーロ一世をはじめとして、祖先にはナポリやシチリアを治めた君主たちの名がずらりと並ぶ。そうした来歴があり、アインフェリア侯爵家はナポリにその領地を戴く貴族だった。

 両家の分裂は十四世紀において発生した。先代当主の急逝に伴う、長兄と次兄の継承権争いに因るものである。もとより兄弟は犬猿の仲として知られており、またその戦いは酸鼻を極めたことで知られている。

 文字通りの屍山血河を築き上げ、世継ぎ争いに勝利したのは次兄だった。彼は侯爵家の正当なる後継者として勝ち名乗りを上げた際、長兄の領土や財産を残らず没収し、家臣に至っては側近から乳母にいたるまで全員を処刑したというのだから、まことに容赦のない話であった。

 一方、降伏した長兄はといえば、末代までの絶対服従を条件として一族郎党の処刑を免れることとなり、エインフェリアなる〈屈辱の家名〉を敗者の烙印がわりに与えられた。妻子とともに断頭台に立たされた長兄は、斧を首元にあてがわれながら一連の誓約を次兄に向けて交わしたといい、その際、懺悔の言葉を涙ながらに述べながら、怨敵であったはずの次兄の脚元へ、繰り返し口づけまでしてみせたという文献さえ残っている。

 エインフェリア家はそうした諸々の経緯により断絶を免れ、アインフェリア侯爵家の忠実なる侍従として後世へ存続するに至った。両家の系図は、誓約を反故にされることを防ぐ目的で政略婚姻を繰り返したことにより複雑極まる。アインフェリア侯爵家先代当主の叔母はエインフェリア家の血筋に連なり、その叔母の伯父はアインフェリア侯爵家の血筋に連なり——といった具合にだ。

 ともかく、アインフェリア侯爵家に生まれた者は、幼い頃より世継ぎとしての帝王学を叩き込まれ、エインフェリア家に生まれた者は、主君たる家に仕えるにふさわしい者へ育つべく、徹底的な教育を施される。そうした両家の奇妙な間柄は、およそ四〇〇年の長きに渡り続いていたのだ。

 そんなアインフェリア侯爵家の長姉としてこの世に生を受けたのが、エリザベート・アインフェリアその人であり、エインフェリア家の次姉としてこの世に生を受けたのが、ジュリア・エインフェリアその人であった。

 両者は互いが五歳のときに初めて出会い、以降、主従の壁を超えた友情を育んでいくこととなる。

 

 ~~~

 

 幼い頃のジュリアは、侯爵家の居城に忍び込んではエリザベートを外へ連れ出してゆくのが常だった。家庭教師やメイドたちの目を盗み、警備の穴を突いて居城の外へ出かけてゆくのだ。

 居室から連れ出したエリザベートの手を引いて、ジュリアはいつものように広大な薔薇園を走り抜ける。ヨーロッパ中から取り寄せた種が色とりどりの花を咲かせる、侯爵家の誇る薔薇園だ。

 そこからしばらく進んでゆくと、古い煉瓦造りの城壁に、子ども一人がやっと通れるくらいの穴がぽっかりと口を開けているのを知っていたから、二人の足取りは軽やかだった。大人の目から束の間解放される喜びと、禁じられたことをやっているという背徳感。そうしたあれこれを小さな胸に抱きながら、幼いエリザベートはジュリアの背中についてゆく。

 二人は城壁の穴を潜り抜け、なだらかな坂を登ってゆく。すると、ほどなくしてポジリポの丘の頂(いただき)へ到達する。ナポリの美しい街並みと、果てまで続く美しい海を一望できる、そこは二人にとっての秘密のスポットに違いなかった。

 沖合を行き交う大小さまざまな帆船が、春の地中海の陽光を浴びてきらめいていた。そうした世にも美しい絶景を眺めながら、あの船はどこにいくのだろう? 積荷の中身は何なのだろう? などととりとめのない話をしているとき、エリザベートは父親が出資する船舶貿易の話をジュリアにしてやり、ジュリアはジュリアで、いつか二人で船に乗って旅をしたいという夢を語り、互いにぱっと花が咲くような笑顔を浮かべるのだ。

 ジュリアとともに城を抜け出し外を駆け回るそうした時間は、幼き日のエリザベートにとって唯一心安らぐ時間だった。城の中の大人たちから向けられる有形無形の期待と重圧——そうしたストレスから解き放たれ、幼馴染みの親友と二人きりになれる時間を、かけがえのないものだとさえ思っていた。

 城の中は息が詰まる。何せ、大人たちは今代唯一の嫡子であるエリザベートに家の再興を託しているのだ。

 農業資本家の台頭により貴族の地位が斜陽に向かいつつある時勢において、アインフェリア侯爵家にかつての栄光は影もかたちも存在しない。幼少のエリザベートはそうした背景を物心ついたときから巧みに察知し、家の再興を願う父母や侍従たちの想いを充分すぎるほどに理解していた。たとえば、壊れたまま一向に修繕されない城壁の穴。社交会よりも目下の商売や投資に執心する当主の父親。ゆきすぎなまでに厳しい家庭教師。年々減ってゆく〈協会〉から雇ったメイドの数。

 さらに今代の侯爵家は男児に全くといっていいほど恵まれず、エリザベートの母も、もう一人出産できるほど健康な状態ではない。

 沈みゆく家のわびしさのような何がしかと、それらを取り繕うべく貴族然として振る舞う父親の後ろ姿、そして嫡男を産めないことの誹りを受ける母親の悲嘆と諦念をただじっと眺めながら、エリザベートは育ったのだ。

 そういうわけだから、世継ぎとしての期待を一身に受けて育った彼女は、大人たちの想いを汲むことに対して実に長けていたといってよい。

 自分は何を望まれているのか。家柄に相応しい振る舞いや教養とはいかなるものなのか。彼女はそうしたあれこれを汲み取りながら、父母や侍従たちの望む令嬢として振る舞う毎日を過ごしてきた。嫌々ながらにそうしてきたわけでは決してない。むしろ自ら進んで侯爵家令嬢然として振る舞っているとさえいえた。

 自分にはアインフェリア侯爵家当主の座を継ぐという責務がある。だからこそ学ぶべきことを幼いうちから学んでゆく必要があるのだ——確固たる意志でそう思ったがゆえの行動だった。

 だからというべきか、当然の帰結として、家の中に心安らぐ場所などなにひとつとして存在しない。世継ぎとして相応しい振る舞いを四六時中求められるさなかにあって、唯一の同年代の友であるジュリアの存在だけが、エリザベートにとって唯一の心の拠り所であったのはそのためだ。

 エリザベートは、ジュリアに初めて会ったときのことをいまでもありありと思い出すことが可能だった。いずれお嬢様にお仕えすることになる子どもです——エインフェリアのメイド長が言ったとき、ジュリアの顔をエリザベートはまじまじと見たものだった。とても綺麗な目をした子であったからだ。

 一点の曇りもない、澄んだ湖面を思わせる美しい瞳。きっととても綺麗な心の持ち主なんだわ、多分とっても優しい子——そんなことを思うあいだ、生涯をかけて侯爵家にお仕えし、当主様と母君、そしてエリザベート様をお守りします、とジュリアはエリザベートの前に跪き、宣誓の言葉を並べ立てる。

 エインフェリア家に生まれた者は、こうして幼いうちに忠誠を誓う場へ連れ出されるのが習わしだった。侯爵家やエインフェリアの人間のみならず、教会の司祭までもが立ち会う様は、まるで洗礼のようだとエリザベートは考える。教会における洗礼とは原罪とそれまでに犯したあらゆる罪が赦(ゆる)される儀式に相違ないが、そういう意味では、エインフェリア家に生まれることそのものが原罪だとでもいうのだろうか。一体誰がそんなことを決めたのだろうか。幼いエリザベートの思考はそのように飛んだものだ。

 

「お嬢様」

「エリザ、でいいわ。私もあなたをジュリアと呼んでいいかしら」

 

 忠誠の儀のあと、大人たちの宴の席からこっそり抜け出したエリザベートは、城の庭でジュリアにばったりと出会い、このように言った。

 エリザでいいわ——どうしてそんなことを口走ったのか、あとから折に触れて考えることが多かった。エインフェリアの家の者は侯爵家に仕える忠実なしもべ。ゆえに両者には絶対的な身分の差があり、対等な会話など赦されるはずもない。そう家庭教師からは教わったはずだった。にもかかわらず、なぜ——。

 あの子の目がとても澄んでいたから——熟考の末、そんな結論に辿り着くことがしばしばだった。あの子のことをもっと知りたい。その目が何をどう映しているのかをもっと知りたい。それは言い換えれば「友だちになりたい」ということだったが、そうした心の揺れ動きひとつが「エリザでいいわ」という言葉になって溢れ出したのかと思うと、ジュリアから「エリザ」と呼ばれる仲になりたいという無意識下の先走った想いが透けて見えるような気がし、エリザベートはひとりで赤面することがよくあった。

 だから、ジュリアに手を引かれて初めてポジリポの丘の頂へ立ったとき、エリザベートは景色の壮麗さにしばし絶句し、あの目が映していたのはこの美しい海だったかと思い、ぞくぞくするような心地を味わった。

 

「お嬢」

 

 真っ赤な夕陽に照らされた丘の上で、ジュリアはエリザベートの方を振り返って言った。

 

「エリザだと気安すぎるから、お嬢——そう呼んでもいい?」

 

 唐突にそんなことを言われたものだから、自分の呼び方についてのことかと、エリザベートは遅れて自覚する羽目になってしまった。だが、「お嬢様」よりも「お嬢」の方が幾分かはくだけて聞こえ、その方が「お嬢様」よりはいくらか対等な友だち同士のように聞こえる気がしたから、「お嬢でいいわ」と半ば折れるかたちで応えてしまった。後年ずっと「お嬢」などと呼ばれ続け、少しばかり困ってしまうことになるとも知らずに。

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~~~

 

 さて、そんな日々のさなかに事件は起こった。いつものようにジュリアがエリザベートを城の外に連れ出した日のことだ。草原を駈け、野原で花を摘み、そして木陰で一休みをしていた際に起こった出来事だった。

 さわさわと木々の葉を鳴らす穏やかな風が、二人の頬を撫でて過ぎ去ってゆく。日差しは温かく、過ごしやすい。新緑の季節の予感を肌身で感じられる陽気だった。

 エリザベートに、ジュリアがもの言いたげな顔を向けてくる。エリザが「どうしたの?」と気に掛けると、ジュリアは応えた。

 

「あのねお嬢……」

 

 ジュリアがおずおずと口を開く。いまでは信じられないことだが、幼い頃のジュリアは少々引っ込み思案なところがある女の子だった。言い淀む口調に、何か重大なことを言おうとしている気配をエリザベートは感じる。

 

「お姉ちゃんから聞いたんだけど……」

 

 ジュリアの言葉はそのように続く。彼女にはとても優秀な、二つ歳の離れた姉がいる。わずか九歳にして侯爵家当主の身辺警護を任されている才媛だ。近ごろは貿易の商売で忙しい父と会うことも少ないエリザベートは、その顔を一度か二度程度しか見たことがない。

 

「もうちょっとしたら、お嬢と会えなくなっちゃうかもしれないんだって……」

「どうして? なぜ会えなくなるの?」

 

 急にそんなことを言い始めたものだから、エリザベートの心臓は少なからず跳ねた。会えなくなってしまうとは、どういうことか——いや、そんなことはアインフェリアの家の者なら当然知っていることだった。知っていながら、こうした二人きりの時間がずっとあるものだと思い込みたかったがために、いつしか記憶の隅へ追いやっていただけなのだと、彼女はいまさらながらに内省した。

 

「シチリアの〈別荘〉に移って勉強しなきゃいけないんだって。お嬢の家に一生仕えるのがエインフェリアの務めだから、二年間ちゃんと勉強しなきゃいけないし、剣やお馬に、お料理のことも習わなきゃってお母さんが……」

「そうなのね……」

 

 知っていたとは言えず、今度はエリザベートの方が言い淀む。

 

「私、お嬢とずっと一緒にいたいよ……」

「ずっと離ればなれというわけではないのでしょう? 〈別荘〉で二年勉強すれば、ジュリアはこのお城で働くことになるの。戻ってこられるのよ」

 

 エリザベートはジュリアの頭をそっと優しく撫でてやった。

 

「またここへ戻ってきたら、ポジリポの丘で一緒に海を見ましょう。私もいっぱい勉強して、あなたに相応しい主人になって待っているから」

「うん……わかった。私もいっぱい勉強して帰ってくるから、約束だよ」

 

 その後は、いつものようなとりとめのない会話になった。将来どんなふうになりたいか、シチリアは一体どんなところか、二年経って再会したときはお互いどれくらい背が伸びているだろうか、などなど。尽きることのない話をしながら、時折ぱっと花が咲くような笑顔を浮かべるジュリアを見て、あらためてエリザベートは「この子に相応しい主にならなければ」という強い思いを抱いていた。

 そうした気持ちはとりもなおさず、再び侯爵家嫡子としての自分に向き合うための時間がやってきたことの自覚に他ならないと、エリザベートは考えた。大人の目から解放された二人きりの時間は、ひとたび終わりを迎えるのだ。そして、それは永劫の別れでは決してない。

 二年後、〈別荘〉での教育を終えたジュリアはエリザベートの正式な従者となるはずだ。であればこそ、やはり自分はジュリアにとって誇れる主人にならなければならない。彼女はそうやって結論をむすんだ。

 と、そうした内省を遮る声がとどろき渡った。「なんでお前らがここにいるんだ」という、男の子たちの声だった。変声期を少し超えた感じの声色だったから、年上の子たちなのだということがわかった。

 

「ここは俺たちの縄張り(シマ)だぜ」

 

 悪ガキたち四人衆、といった趣だった。身なりからして、港の裕福な商家の子どもたちであることが見て取れた。相手が侯爵家の子どもと知っていながらこの態度であるのだから、貴族の地位の低下ぶりが手に取るようにわかる話ではあった。

 ジュリアがエリザベートを庇うようにして立ちはだかった。その脚が震えているのがエリザベートの目にとまる。恐怖を圧して、主人を守るべく立ち上がったのだ。

 一方、エリザベートの対応は冷静だった。

 

「行きましょう」

 

 エリザベートはジュリアの手を引いてその場から立ち去ろうとした。斜陽一族としての誹りを受けることには慣れている。父がたびたびそうした屈辱に耐えているのを、ずっと昔から見てきたからだ。

 

「没落貴族風情が調子に乗るなよ!」

「貴族が商売に手出してんじゃねー!」

「言われっぱなしかオイ」

「あ? 何も言い返せないのかよ?」

 

 エリザベートを馬鹿にする声が背後から次々に降りかかる。心を平静に保ちつつ、それらをいなす術ならば生憎と充分すぎるほどに心得ていた。だから何を言われても平気——そう思っていた、そのときだった。

 ガツン、という音がして視界がわずかに揺らいだのを自覚した。少し遅れて痛みを感じ、その場でほんのわずかに姿勢を崩す。小振りな石が顔をかすめたのだと気づいたときには、ジュリアの手は既にエリザベートから離れていた。

 突然のことに、声を発する者は誰もいなかった。「やめなさい!」と鋭い声で一喝する、エリザベートただ一人を除いて。

 ジュリアの小さな身体が、弓から放たれた矢もかくやという勢いで四人の子どもたちに突進していた。まず一人目——急所に一撃を入れて薙ぎ倒す。そして二人目——足払いをかけて転ばせる。更に三人目——腕の関節を絡め取って投げ飛ばす。間髪入れずに四人目——逃げ出そうとする背中めがけて跳び蹴りを喰らわす。

 小柄な体躯からは想像もできないようなパワーと、そして瞬発力だった。何より動きに無駄や隙が一切ない。それはエインフェリア家の見習いメイドとして仕込まれた護身術の賜物に相違なかったが、子ども同士の喧嘩においてはいささか過ぎた暴力と呼ぶほかない代物だった。

 

「ジュリア! やめなさい!」

 

 なおも鋭い声でエリザベートがジュリアを制する。その声にはっとしたような顔をして振り返ったジュリアは、エリザベートの怒りと悲しみがないまぜになった表情を見るなり、後悔したような、困ったような、何がなんだかわからないような、そんな顔をして固まっていた。

 

「何を考えているの!」

 

 エリザベートは生まれてこの方発したことのないほど大きな声を出して、ジュリアのことを叱りつけた。かたや突然の奇襲攻撃を喰らった子どもたち四人は、めいめい泣き声を発しながら既にその場から背中を向けて逃げ出していた。

 

「ごめんなさい……」

 

 ジュリアがぽろぽろと涙を溢しながら謝った。傷口の具合を心配そうに見つめながらそんな反応を見せたので、泣いているのだか、心配しているのだか、曰く区別がつきにくい表情になってしまっている。

 一方、エリザベートの額には少しだけ血が滲んでいた。だが彼女は気にする素振りさえなく溜息をついた。

 

「あなたはエインフェリアのメイドとして、見習いとはいえ特別な訓練を受けているの。街の子と喧嘩なんかしたら、相手を怪我させるだけでは済まないかもしれない……わからないなんて言わせないわ」

 

 そう言い含めると、ジュリアは泣きながらこっくりと頷いた。

 

「ごめんなさい……」

「私はやめなさいと言ったはずよ。主人の命令を聞けないメイドなんて——」

「ごめんなさい……お嬢のこと、守ろうと、思って……でも、怪我させちゃった……お嬢は何も悪いことなんかしてないのに……」

 

 ひくひくと泣いて謝り続けるジュリアの手を取り、エリザベートは言った。

 

「……ありがとう。その気持ちだけで充分よ」

 

 ぎゅっと震えるジュリアの身体を抱き締める。か細く小さな身体は子犬のように震えていた。彼女は恐怖を圧して、主人の盾となるために戦ったのだ。その内容がたとえやりすぎといって差し支えないものだとしても、エリザべートを守ろうとする気持ちだけは本物なのだと思うことにした。事実、そうなのだから。

 そして夕方——城に戻ると、エインフェリアのメイド長が鬼の形相で二人を迎えた。その背後には、ジュリアの姉が付き従っている。

 

「これまで見逃してきましたが、今度というばかりは看過できません」

 

 エリザベートの顔の傷を見咎めたメイド長——ジュリアの母親が言った。

 

「待って! この子は——」

 

 エリザベートが言いかけた瞬間、ジュリアはメイド長から猛烈な平手打ちを喰らった。城の回廊中に響く、もの凄い音だった。だが、頬を真っ赤に腫らしたジュリアは泣かなかった。

 その日以来二年間、エリザベートがジュリアと会うことはなかった。そして、再会したときのジュリアはまるで別人のようだった。〈別荘〉での教育の苛烈さは、傍目から見ても明らかなほどに思えた。年上の子どもたち相手に震え、主人に叱られ泣いていた頃の彼女は、影も形もないというのがエリザベートの偽らざる実感だった。

 ただ最初に会ったときに見た、あの澄んだ瞳だけは変わらない。それが唯一、ジュリアがジュリアであるという証左にも思え、場違いな安堵を感じたそのときの心境を、エリザベートはその後何度も胸の内で思い起こしたものだった。

 侯爵家新任メイドとしての挨拶を成長したジュリアが口にする。ぱっと花が咲くように笑っていたかつての表情は、仮面のような無表情に覆い隠されていた。開口一番、ジュリアはエリザにこう声をかけたのだった——「ご無沙汰しております、お嬢」と。

 

 ~~~

 

 窓際からナナたちの特訓を見下ろし、ジュリアを後ろから抱きかかえながら、エリザベートはそうした昔日の日々を思い返す。そうだ、この子のこういうところだけは昔とまるで変わらないのだ、という発見がエリザベートの胸中に湧いて出た。冷静なようでいて直情的——特にエリザベートのことに及ぶと手がつけられなくなってしまう。

 

「あのときと同じね、私のことになると見境がなくなるところとか特に」

「返す言葉もありません……」

 

 ジュリアは俯き加減に言った。彼女なりに反省している様子だった。彼女も彼女で、あのときのことを思い出しているのだろうか。

 

「ほら、覚えてる? お城から抜け出したときのこと。私が男の子に石を投げられたとき、あなたは私を守ってくれたでしょう。あなたを叱るとき、最後に「ありがとう」なんて言わずに、もっときつく言い含めておくべきだったかしら。それとも、手を出さなくなっただけいまはマシになったと言うべきかしら——いずれにしても、従者の躾(しつけ)がなってないって、レディントン先生からたっぷり絞られちゃったわけだけれど」

 

 ジュリアの顎に指先を這わせながらエリザベートは告げた。

 

「それとも何かしら、所構わず噛み付くのは、むしろ主人からの躾(しつけ)をご所望だから、とか……?」

 

 悩ましげな吐息と声音に、ジュリアが少しだけ赤面して黙り込んだ。

 

「何てね、冗談よ冗談!」

 

 エリザベートは「うふふ」と楽しげに笑うと、ジュリアが少しだけむくれた顔で振り返った。珍しい反応だった。

 

「いまも昔も私のことを大事に思ってくれているのは、本当に感謝してもし足りないと思ってる。でも、私のことで周りが見えなくなる悪い癖は、絶対に直さなきゃだめよ。私たちはこの学校を出たらメイドとして自立していかなくちゃいけないわけだから、尚更ね。これは主人からの命令です」

「自立。私はどうすればいいのですか——」

 

 私にはお嬢しか——その言葉を呑み込む気配をエリザは感じた。

 

「自分の意思を持ちなさい——私の手を引いて暗い部屋から連れ出してくれた、小さい頃のあなたみたいに」

 

 ジュリアの瞳が、遠くの夕陽を見つめている。

 丘に暮れなずむ夕陽の赤色は、あの美しい瞳の底でどのような像を描いているのだろうか。エリザベートはそんなことを考えながら、整ったジュリアの顔立ちを、横合いから黙って覗き込んだ。

 

 ~~~

 

 寮の生徒たちも寝静まった真夜中。学園馬術部の事務所兼応接間にあって、ランプの薄明かりのもと、二人の女性がテーブルを挟んで相対する。うち一人はブルネットの髪をポニーテールに結わえた女性である。舞台に立って男役でもしたら大層様になりそうな顔立ちと、馬術で鍛えたしなやかな肢体が特徴的だ。もう一方の女性は、眉のあたりでアーチ状に切り揃えられた金髪が腰のあたりまで緩やかなウェーブを描く、いかにも高貴な趣を醸し出している女性だった。表情の変化に乏しい美貌と、鋭い眼差し。また口元に濃く引かれたルージュといったコントラストが、いわく近寄りがたい雰囲気を醸し出している。

 二人の間を隔てるテーブルには、中身が半分ほどに減ったブッシュミルズのボトルと酒精を注いだバラスターグラスが並んでいる。何気なく置かれたボトルは、この馬術部の主が秘蔵する故郷の蒸留所謹製の高級酒に相違ない。滅多なことでは客人には出さない代物である。

 そう、いまここにいる二人の女性——馬術部顧問のメイド学科教師、ノーラ・オブライエンと、メイド学科一回生のクラス担任、アヴリル・メイベル・レディントンが、秘密の会談の席を設けているのだ。二人は学園の教師であると同時に〈協会(ソサエティ)〉へ属する〈コミュニア〉徽章持ちのメイドでもある。その経歴たるや華々しく、まさに歴戦のメイドといってもいい。ともに死線を潜り抜けた回数は数知れない戦友ともいえる間柄だ。その二人が人目を避けて交わす話とは、いったいいかなるものなのか——。

 

「エリザのやつが従者のことで詫びを入れに行ったらしい。リサ・キャロットやナナ・ミシェーレの部屋まで、わざわざ直接出向いてな。まったく律儀な『ご主人様』であることよ」

「ふーん、貴族が平民相手に謝ったりすることもあるんだ。君と違って、実に出来た貴族サマといえるねぇ」

 

 ノーラがにやにやと薄笑いを浮かべながらアヴリルに言った。アヴリルは公爵家の生まれである。一方、ノーラは平民の出であった。

 

「一言余計だ。それに私がお前に謝らなければならない真似をしたことなど一度もないだろう」

「よく言うよ。学科時代に喧嘩を吹っ掛けてきたのは大概君からだったでしょうが」

「いいや、お前の方から先に仕掛けてくることの方が多かった」

 

 いつものように軽口を叩き合いながら、ナナとジュリアの決闘の件について、ノーラはついに切り込んだ。

 

「一度成立した決闘は覆らないと嘘までついて、決闘不成立は放校処分なんてもっともらしい情報まででっち上げて、上の方にまで根回しして……アヴリル、君はいったいどういう腹づもりだ。企んでいることがあるなら言ってみろ」

 

 相方のグラスへ追加の酒を惜しみなく注ぎながら、ノーラはアヴリルの瞳を覗き込んだ。その奥底に潜む真実を掴み取って引き摺り出してやる、とでもいうかのような、一種獰猛な眼差しだった。

 

「ナナ・ミシェーレの才能と適性を見極めたい。そのためにジョストはうってつけだった」

「へえ、その心は」

「そうだな……何と言えばいいか、ナナ・ミシェーレには周囲を巻き込む才能がある。さらに愚直に努力を重ねる才能も持っている」

「ただ厳しいようでいて、生徒のことをよく見ているんだね。うんうん、〈協会〉いちの狂犬が、気づけば良い先生になったもんだ」

「褒めるのか貶すのか、どちらかにしろ」

 

 脱線しかかった話題を、アヴリルは元の路線に引き戻す。

 

「ジョストの戦いに短期間で臨めるようにするためには、彼女ひとりの力のみではなく、周囲の協力を仰ぐことが不可欠だ。更に言えば、馬術や武器の取り扱いなど覚えるべき事項も多い。さっき言った二つの才能が、まさに試される競技だとは思わないか?」

「それで手ずから決闘するよう仕向けたわけだ。狡(ずる)いやつだねぇ君は」

「お前も私もメイドでありながら、いや、メイドだからこそというべきか——そのときどきの主人に仕える間諜として生きてきたのだ。間諜という仕事において、狡さは基本中の基本にすぎない」

「で、私の馬術部へ助けを求めにやってくることも織り込み済みだったわけだ」

「まさか学園一の暴れ馬を乗りこなすまでになるとは思わなかったが」

「あれには私も驚いた。シュークリームを与えると大人しくなる馬なんて、見たことも聞いたこともない」

 

 そう言ってノーラがあははと笑った。つられてアヴリルもふふふと笑う。鉄面皮の鬼教官として知られる『レディントン先生』が笑う姿など、生徒たちが見たら卒倒してしまうに違いない。それは、アヴリルがノーラの前でのみ見せる表情だった。

 

「どっちが勝つと思う」

「ジュリアちゃんって、地元のナポリじゃジョストで負けなしだったんでしょう? ナナちゃんに筋があるのは認めるけど、勝ち目があるとは思えないな」

「お前はジュリアに会ったことがあるか?」

「いや、ここの厩舎に馬を預けていったときも、応対してくれたのは二年生の部員だったからね。直接会ったことはない」

 

 ノーラがそう言うと、アヴリルはにやりと口の端を歪ませた。

 

「私は、ジュリアには重大な弱点があると見ている。もっともそれにナナ・ミシェーレが気づけるかどうかまでは『神のみぞ知る』ところだとは思うが——ともあれ、些細な綻(ほころ)びに気づける力というのは、メイドにとって基礎スキルに他ならない。それは屋敷の諸事であっても戦いであっても同じことだ」

「色々言ってるけど、君はナナが勝つと見ているわけだね」

「確かに可能性は低いだろう。だが、ゼロではない。賭け事は取り分の多い目へ張るたちでな。生徒の才能を正しく見極めている自負もあるし、自信もある」

「じゃ、賭けようか——アヴリル、君はいくら出す」

 

 そうこう決闘について話に花を咲かせているうちに、二人の話題が転換する。〈協会〉や学園を取り巻く不穏な空気についての話だ。探るべき勢力——二人が王都ロンドンに居を構える〈協会〉本部から内偵を命じられている、ある政治勢力にまつわる何がしかは、日々見えないところで微かな動きを見せている。そうした姿なき暗躍者の背後には、〈大戦〉後のヨーロッパにいまもって軍事的影響力を示し続ける大ドイツの存在さえ噂されていた。

 

「ロンドンの〈情報課(ディヴィジョン)〉が早馬まで使って寄越してきたこの報告書。こいつをどう思う」

 

 ノーラが鍵つきの引き出しから取り出た封書の中身を検め、アヴリルはしばし黙考したのち、「うむ」とひと声だけ唸ったものだった。

 

「学園のネズミを特定した、ときたか」

 

 ネズミ——それは彼女たちのような〈協会〉所属のメイドや、あるいは王国の諸機関に仕える軍事探偵らにとって、組織に潜り込んだ内通者を意味する隠語であった。

 

「あくまで個人的な見解だけれど、この情報、ガセではないと私は見ている」

「〈騎兵(キャヴァルリーマン )〉の勘は健在、というわけか」

 

 アヴリルは微かに笑った。そこには昔を懐かしむかのような声色が覗いている。それに対しノーラは、「昔の暗号名(コードネーム)で呼ぶのは止してもらえないか、何だか妙な心地がする」と言って酒を呷った。

 

「ともあれ、それを踏まえて、だ。ここは君の見解を聞きたい」

「やれやれ、珍しく晩酌に誘ってきた理由はそれか……」

「君の仏頂面が酒精で溶けていく様を眺めるのも目的のひとつさ——で、どうなんだい?」

 

 しばらく黙考したのち、アヴリルは慎重に答えた。

 

「……しばらく泳がせるべきだろうな。ひょっとすると『芋づる式』ということもあり得るやもしれん。王国の病巣は根深い——鬼が出ても蛇が出ても、いまさらそんなに驚きはしないさ」

「まったく同感だね。それが確認できただけでもありがたい。この学園も〈協会〉も、問題は山積みだ。敵は大ドイツだけにあらず、敵の味方は更なる敵、って具合にね」

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