第7話
「彼女の命運が決した理由(前編)」
ジュリア・エインフェリアは目蓋を開く。窓の外はまだ暗い——だが、もうすぐ日が昇ると直観できた。鳥たちの小さなさえずりが聞こえたからだ。
ゆっくりとベッドから身を起こし、幾度か目を瞬かせる。隣のベッドに視線を移すと、エリザベートが穏やかな寝息を立てている様子が目に入った。
決闘当日の朝——まだ覚醒しきっていない頭でその事実を意識しつつ、眼前に手のひらをかざしてじっと眺める。
また夢を見た。昔の記憶に関する夢……エリザベートと離ればなれになっていた頃の記憶を夢に見たのだ。シチリアにある侯爵家の〈別荘〉において、地獄の教練を施された頃の記憶だ。
メイドとして身につけておくべき料理や掃除などの諸事、侯爵家の眷属として知悉すべき上流階級の振る舞いの数々、語学などの勉学全般、馬術に武芸。それらをスパルタ式に叩き込まれる日々は、辛く厳しいものに相違なかった。
ここで学ぶすべての物事は、侯爵家の方々をお守りするために身につけるべき事柄なのです——〈別荘〉にいた退役軍人、大学教授、シェフなどの教官たちは口々にそう言ったが、ジュリアは侯爵家のことなど「どうでもいい」としか感じなかった。それよりも何よりも、重要なのは『お嬢』だった。
忠誠を誓う主人たるエリザベートのみを守るために、エインフェリアのメイドとして教え込まれたスキルの全てを利用してやる。そんな不遜(ふそん)なことさえ思っていた。侯爵家のことに関していえば、嫡子であるエリザベートを抑圧する有形無形の何がしかを憎んでさえいたといっていい。
だから、ジュリアは自らの姉であるシエナ・エインフェリアが出奔したときも、はじめは何とも思っていなかったのだ。ああ、メイドとして決められた家に生涯仕え続けなければならない自らの人生に、姉は決別をしたのだ。主人に忠実なメイドであったように見えて、その実、自由奔放な内面を有していた女には違いなかったのだから、きっと血の因業に縛られることをよしとしなかったに違いない——その程度にしか考えていなかった。
実際、ジュリアの姉——シエナ・エインフェリアは自由奔放な女だった。表では侯爵家に仕える天才メイドとして、折り目正しく、貴族に仕える侍女として十全すぎるほどの働きをしていた。とりわけ、病弱なエリザベートの母親を甲斐甲斐しく看病していた姿が印象的だ。
その一方で、主人たちの目の届かない場所でのシエナといえば、身につけているメイド服を着崩しては厨房から勝手に拝借してきたとおぼしきフルーツにかぶりつき、「おうジュリア、お前もいるか? 美味いぞ」などとのたまっているというのが常だった。城内から出入り可能な例の城壁の穴を教えてくれたのも、姉のシエナであったのだ。
だから、誰に断ることもなくシエナが侯爵家を出て行ったと聞いたときには、そういう人生を選んだか、程度のことしか思わなかったし、彼女の仕えていたエリザベートの母親が病に倒れ、薬石効なく鬼籍に入ったことが出奔の契機になったのだとしても、無理もない話程度に思ったものだった。
ジュリアは、エリザベートの母親の葬儀を思い出す。当主であるエリザベートの父親は貿易の仕事で長らくイタリアを離れており、出席はしていなかった。また、貴族の葬儀にしては参列者は驚くほど少なかった。男の世継ぎを産めなかった女の死に対する視線は、かくも冷ややかなものだったのだ。
棺に取りつき、声を上げて号泣するシエナの肩を、エリザベートが優しげに抱いている。そうした様子を、ジュリアは後ろからただ黙って見ていることしかできなかった。
「あんまりだ、こんな人生、あんまりじゃないか——!」
エインフェリアのメイドたちが止めるのも構わず、張り裂けそうな勢いで叫んだシエナの声音が、記憶の中で耳朶を打つ。
そうしてシエナ・エインフェリアは侯爵家を去ってゆき、エインフェリアの名を棄てたのだった。
あとに残されたものは全部でふたつ——ひとつは、エリザベートの母親の墓前に供えられた薔薇の花束である。生前、エリザベートの母親が愛してやまなかった品種の薔薇だ。そしてもうひとつ残されたものが、ジュリアの部屋に置かれていた手紙であった。
そこに書きつけられていた簡潔な一文——縛られるな、自由になれ(Non essere vincolato, essere libero)。その後に続く姉の手書き文字を読んだ瞬間、ジュリアの血は沸騰したものだった。
曰く——私はエインフェリアの血に縛られていた。そのことにさえ気づかなかった。この縛めに最初から気づいていれば、こんな思いをせずに済んだというのに。それで、お前は何に縛られている? エリザベートがお前にとっての「それ」ならば、自らの手で縛めを解くことも必要だ。姉として、妹であるお前の幸福を願っている。シエナより、愛を込めて——。
ふざけるな! ジュリアは叫び、姉の手紙を破り捨てた。あろうことか『お嬢』を「縛め」などと言い表すとは。
そう、あのときだ。エリザベートに対する思いを新たにし、姉に対する憎悪を抱くに至ったのが、あのときだ。
自分はより一層、『お嬢』の影となり支えとなり生きていこう。それは自らの意思で『お嬢』を慕っているからに他ならない。家のことも何もかも関係ない。『お嬢』が大切だから『お嬢』を守る。それ以外の何ものでもありはしない。
翻って、姉のしたためた置き手紙の何という書きっぷりだろうか。言うに事欠いて縛めを解き放てとは——姉はエリザベートに仕える自分の覚悟の何もかもを理解(わか)っていない。それがゆえの傲岸を感じ、ジュリアは烈火のごとく怒り狂った。
だからして、ジュリアはエリザベートの従者としてその生涯を全うしようと改めて誓った。エリザベートが家の再興を切望し、〈王宮メイド〉となり役名が与えられれば貴族と同等の地位が手に入ると王立ファルテシア学園への進学を望んだとき、迷うことなく付き従うことに決めたのもそのためだった。
エリザベートが家の再興を第一に考えて行動するのならば、自分もそれに倣うのみだ。すべては侯爵家に再びの栄華をもたらすために——そんなエリザベートの思いを誹るものが現れたのだとしたら、必然的に、そいつはジュリアにとって敵となる。
リサ・キャロットによる「没落貴族」の言葉に堪えられなかったのはそのためだ。しかし、そうした直情的な行動に走ってしまった自分を、いまのジュリアは恥じてもいた。
幼少の頃、商家の子どもたちと喧嘩をしたあの頃と何も変わっていないというのは、まさしくエリザベートの言うとおりだった。侯爵家次期当主は従者の手綱さえ握れないのか——そんなふうに思わせてしまったことを、ジュリアは深く恥じ入った。
しかしそれでもなお、自分はリサ・キャロットを許せるか? というのは、ここ一週間ものあいだジュリアの胸中で渦巻いていた自問だった。エリザが赦せと言ったから、自分はリサ・キャロットを赦したまでだ——だとしたら「自分の意志を持て」とジュリアに忠告を繰り返すエリザベートの言葉はもっともだった。
そこで、ふと気づく。やはり自分は、何がしかの「縛め」によって雁字搦めにされているのではないか? いや……なぜいまこのタイミングで姉の置き手紙を気に掛ける必要があるのか。そんな必要はないはずだ。ジュリアは自らの妄念を振り払う。
そうした自らの心根の動きにざわめきひとつを覚え、窓の外の景色に目を移した。とても綺麗な——それこそエリザベートとともに見た、ナポリの日の出を思い起こさせる朝焼けが眩しかった。
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朝の職員棟をひとりの生徒が歩いている。寝癖がついた白に近い金髪と、皺だらけの乱れた制服。スカートのそこかしこに絵の具の染みが沈着している様子は、メイド学科生に相応しからぬ不精ぶりといえた。
しかし、そうした見た目とは相反するかのように彼女の背筋はぴんと伸び、足取りは軽く、床を踏みしめる音はほとんどしない——そういったあれこれが、ひどくアンバランスな印象を抱かせる生徒だった。
「失礼しまーす」
間延びした声音で、生徒は研究室の扉をノックした。王立ファルテシア学園の学園講師にはひとりひとりに研究室が与えられており、そこが各々の執務室にもなっていた。研究室の表札には〈Avril Mabel Reddington〉と書かれている。
「入れ」
中から応答の声が聞こえてくる。生徒が扉を開けると、中には応接用のテーブルを挟んで、ふたりの女性が向かい合うようにして座っていた。学園講師のアヴリル・メイベル・レディントン。そしてもうひとりは——〈エスパティエ〉の徽章がついた制服を派手に着崩したメイドだった。凜とした眉に切れ上がった目元、外に跳ねた黒髪は肩のあたりまで無造作に伸びており、頭頂部から飛び出した癖毛がいかにも特徴的な見た目だった。
「お使いご苦労、ペネロペ」
アヴリルがティーカップを持ち上げながら言った。ペネロペと呼ばれた生徒は、紙切れ一枚をアヴリルに手渡し、自らも応接用ソファに腰を下ろした。
テーブルには三人分の朝食(フル・ブレックファスト)が置かれている。ブラッド・ソーセージ、キッパー、ベイクドビーンズ、マーマレードが添えられた熱々のトーストにティーセット。それらアヴリル謹製の手料理は、極上の一品との評判を〈協会〉において獲得している代物であった。
「まったく人使いが荒いよレディントン先生は……生徒に『馬券』を買いに行かせる教師なんて前代未聞だ。教育上憂慮すべき所業だね」
「教師が大手を振って生徒主宰の賭け屋(ブックメーカー)に行くわけにはいかんだろう。お前のような小間使いがいてくれて、非常に助かる」
「小間使いってひっどいなー! ほら、『ナナちゃんの勝ち』にちゃんと投票してきましたからね。金額、確認しておいてくださいよ!」
鬼教官として知られるアヴリルに対し、くだけた調子で答えるこの生徒は何者なのか——少なくとも、普通の生徒ではこんな態度はありえなかった。だが、アヴリルは怒る様子さえ見せていない。むしろ「いつものこと」程度に捉えている節さえあったのだ。
「アッハッハッハッハッ! レディントン先生のパシリなのは相変わらずだな!」
と、そんなふたりのやり取りを聞いた〈エスパティエ〉のメイドが腹を抱えて笑い出した。
「おいペネロペ、お前いま留年何年目だ?」
「知らない。もう数えたこともない。いくら留年したところで学費は国から全額出るし、気にしちゃいないね」
「お前の留年ライフに血税が使われていると知られた日にゃあ、革命が起きてあっという間に国がひっくり返されるだろうな」
「おいおいフィナンシェ——君は国を守る〈王宮メイド〉のひとりだろう。そのときは革命勢力を〈フォルセティ〉の四人で打倒してくれたまえよ」
その返答に、フィナンシェと呼ばれた〈王宮メイド〉はまたしても爆笑する。そんな冗談めかしたやり取りを交わす両者を見ながら、いよいよアヴリルが切り出した。
「——で、さっきの話の続きだが、私が言ったお前の妹君の弱点。当たっているだろう」
「ま、そうですね。ジュリアはジュリアで上手いことやっている気になっているでしょうけど、先生の目はごまかせない。当たってますよ。あいつは自分が思っているほどナナ・ミシェーレに楽勝できない……それだけは保証します」
その返答に、アヴリルは満足そうに頷く。そして、フィナンシェと呼ばれた〈王宮メイド〉は更に続けた。
「とはいえあいつもアタシと同じようにエインフェリアの英才教育を受けてきた人間です。素人同然のヤツを相手にして、易々と負ける姿も想像しにくい——勝つか負けるかは、五分五分ってところでしょうね」
「なるほど、参考になった」
アヴリルはそう言って、次のようにつけ加えた。
「ジュリア・エインフェリアの実姉にして、〈フォルセティ〉最高の戦闘技能を持つシエナ・フィナンシェ本人がそういうのなら、その見解に間違いはないのだろうさ——」
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放課後。礼拝堂近くの馬場に、尋常ならざる人だかりができている。集まっているのは学園中の生徒たちだ。メイド学科の生徒たちばかりではない。すべての学科の生徒たちがナナとジュリアの決闘を見物しようと集まってきているのだから、お祭り騒ぎといった形容が相応しいほどの賑やかさだ。
あたりには食べ物や飲み物を供する出店があり、それらのテントではメイド学科生たちが忙しそうに立ち働く。また賭け屋(ブックメーカー)のテントには勝敗予想の賭け率(オッズ)が貼り出されており、ナナの勝利は『42/1』と記載されていた。つまり『ナナの勝利』に一〇ギニー賭けた場合、的中時には四二〇ギニーもの利益を得ることが可能なわけだ。当然のことながら、ナナの勝利は大穴扱いなのである。
観衆の中——馬場を臨む埒(らち)沿いの最前列。そこに陣取る少女へ近づく者があった。彼女が人ごみを掻き分けるたび、周りの生徒たちが迷惑そうな視線を寄越してくる。
「よぉブン屋ちゃん」
「何度も言わせないでください……私にはユスティーナ・ジェルジェンスカヤというれっきとした名前があるのですけれど」
『ブン屋ちゃん』と声を掛けられた少女——メイド学科一年生のユスティーナは、いかにも神経質そうな視線を眼鏡のレンズ越しに寄越してくる。きりりと引き締められた口元と温度の低い眼差しは、黒々とした髪を三つ編み(フィッシュボーン)にしている雰囲気も相俟って、いかにもな堅物といった印象を抱かせる。
「ブン屋ちゃんはブン屋ちゃんだろう? 学園新聞編集部が誇る気鋭の新人記者と、君は専らの評判じゃあないか。優れた記者であることを少しは誇りに思いたまえよ」
「あなたに『ブン屋ちゃん』と呼ばれると、何だか小馬鹿にされた感じがするのです」
「心外だなぁ、君を『ブン屋ちゃん』と呼ぶのは、まさしく親愛の証というやつさ。それとも、ミス・ジェルジェンスカヤと畏(かしこ)まって呼んだ方がお気に召すかな?」
「『ブン屋ちゃん』よりも遙かに馬鹿にされている感じがします——で、何の用ですか」
「つれない女だねぇ全く。ま、その方がぼくとしても口説き甲斐があるというものだけれど……」
そう言ってやれやれと肩をすくめる少女も、ユスティーナと同じくメイド学科の一年生だ。美術部員のペネロペ・ハバード。王国の職業軍事探偵(諜報員)を父に持つ才媛であるが、本人は勉学よりも絵画や彫刻の方にご執心という変わり者である。
鳥の巣もかくやというくらいぼさぼさになった、ほとんど白色に近い金髪を無造作に掻きむしる様子は、授業をさぼってアトリエに篭もっていたところからいましがた出てきたばかりといった趣であり、まるで冬眠から目覚めたばかりの何がしかの獣といった風情だった。
「今日の決闘、どっちが勝つか君の見立てを聞きたくてさ」
「そんなもの、ジュリアさんが勝つに決まっています」
「ま、それが順当ってところだろうね。賭けが成立するかしないか、ギリギリの線だって賭け屋(ブックメーカー)の連中からは聞いていたし」
にやにやと不敵な笑みを浮かべながら、ペネロペは紙切れ一枚をかかげてみせる。それを見たユスティーナの表情がわずかに変わるのを、楽しげに眺めるかのような調子だった。
「正気ですか……?」
「言うと思った!」
ペネロペはぴゅうと口笛を吹く。彼女の指には、それなりの金額をナナの勝利に賭けていることを示す賭け屋の証書が挟まれていた。
「ぼくの手持ちの半分を突っ込んだ。それなりの勝算があってのことさ」
「何やら自信がありそうですが——その理由(わけ)を聞かせてください。あなた自身のことはこれっぽっちも信用などしていませんが……父君譲りの『目』と『耳』だけは、信頼に値するからです」
ユスティーナの言葉に、またしてもペネロペの口笛がひとつ響く。
「いやぁ~、タダで教えてやるってわけにはいかないなぁ」
「……では結構です」
「え、何で!?」
「きっとろくでもない交換条件を出されるに決まっています」
「ちぇ、バレたか……」
と、その瞬間、少し遠くの方から歓声が上がった。いよいよ決闘が始まる気配を察したユスティーナは取材用のメモを取り出し、ペネロペは声の上がった方の様子を背伸びをしながら伺った。
フォックスハントの引き手を持ったナナが、馬場へ続く道を緊張の面持ちで歩んでいた。彼女が歩むそばから群衆が真っ二つに分かれゆく様は、旧約聖書で描かれたモーセの海割りもかくやという趣である。ただしナナ本人はというと、堂々とした入場とはほど遠く、カチコチと固くぎこちない動きで歩んでいる。着慣れないジョスト用の鎧を身に纏っているのも、不格好さを助長しているように思われた。
そんなナナの背後には、ジョスト用の長槍(ランス)を掲げる付添人(セコンド)のリサと、焼きたてのシュークリームが入った籠を手にしたニコル、さらにはリンとカエデの合計四人が付き従っていた。
「大丈夫なのでしょうか、あれ」
ユスティーナが冷ややかな視線を送りながら言った。ペネロペは苦笑でそれに応える。
ナナたちが馬場へ足を踏み入れると同時に、ギャラリーはさらに沸き立った。まるで選手入場という趣である。そうした大音量の歓声に興奮したフォックスハントが両前脚を高々と掲げて立ち上がり、咆え声めかした嘶(いなな)きを轟かせると、歓声はどよめきに変化した。「あれやばくない?」「本当に乗れるの?」「落馬は即失格でしょ?」皆が口々に言い立てる。
そうこうしている間にもフォックスハントは尻っ跳ねを繰り返し、白眼を剥き出して首をブンブンと揺らしまくり、しまいには涎を撒き散らしながら咆え続けるので、ナナとリサとリンの三人がかりで力一杯引き手を押さえつけなければならなかった。
「ニコさん! シュークリームです! はやく!」
「ちょっと、これやばいって!」
「大人しくしてー!」
三人が悲鳴を上げるさなか、ニコルは「手を噛まれるのではないか」と涙目になりながらシュークリームのひとつを差し出す。すると芦毛の暴れ馬はそれをぱくりと口に含んで、何ともいえない幸せそうな表情でモグモグと咀嚼をしはじめたのだった。
「よ、よかった……大人しくなりましたね……」
「ホント変な馬……」
「始まる前から疲れちゃったよ……」
リン、リサ、ナナが口々に言っていると、再びギャラリーの歓声が巻き起こった。ジュリアたちが入場してきたのだ。
威風堂々たる大本命の登場——まさに、そういった形容が相応しいほどの気配だった。
ジュリアの付添人(セコンド)には、主人であるエリザベートがついている。長槍(ランス)を掲げて歩くその姿勢は何ともいえず美しい。そしてジュリアが引き手を握る馬は、鹿毛色の毛並みがぴかぴかと輝き、よく手入れされていることが誰の目からも明らかなほどだった。
勇ましさと気品、そして風格を兼ね備えたジュリア陣営の入場に、観衆の中から人知れず溜息が洩れ出てくる。そうした熱視線はジュリアではなく、付添人(セコンド)であるエリザベートの方にむしろ多く注がれているようだった。容姿端麗、成績優秀、高貴な物腰でありながら、平民出身の生徒にも分け隔てなく接する彼女のファンは多かったからだ。
「始まる前から勝負はついているも同然なように思えますが……」
そうしたジュリア陣営の様子を見て、埒沿いの最前列に陣取るユスティーナがコメントした。
「さあどうだかね。やってみなければわからないのが勝負というものだとぼくは思うが」
ペネロペは愉しげに答える。
「しかし、番狂わせが起こるようにはとても見えません」
「ブン屋ちゃん、いまの君の目は、ものごとの表層しか捉えられていないのさ。表層の奥底に潜む本質を捉えられなければ、記者として真の一流とはいえないね」
普段は万物に退屈しているかのようなペネロペの目が、一瞬だけ別人のごとく据わったものになった気がして、ユスティーナは意図せず背筋がぞくぞくする心地を味わった。そんな風に感じてしまった自分が悔しいやら何やらで、彼女はそっぽを向きつつ応じるしかなかった。
「あなたに記者としての一流二流を判断されたくありません! 余計なお世話です!」
「まぁまぁ、見てなって——いよいよ決闘のはじまりだ」
馬場の中央でナナ陣営とジュリア陣営が向かい合った。立会人兼審判として両者の狭間に立っているのは、馬術部顧問のノーラ・オブライエンをはじめとした、学園の誇るジョストの名手たち三人だ。
「両者ともに正々堂々と戦うこと。反則行為は即失格と見做す。いいね?」
「はい!」
「……」
ノーラが告げ、ナナは緊張の面持ちでそれに応え、ジュリアは無言のままナナの背後にいるリサの方へ視線を移した。
「行きすぎた真似をしてしまったことは謝る——リサ・キャロット」
「……悪かったわよ。あのときは言い過ぎた。私の方からも謝るわ」
「謝意は理解した。しかし、これは然るべき『けじめ』をつけなければ収まらない物事だ。心して見届けろ」
それだけ言うと、ジュリアはナナやリサたちに背を向けて、馬を引きながらスタートラインの方へ歩み去った。
「この前も言ったけど——別に、私は何も気にしていないわ」
付添人(セコンド)のエリザベートがリサに言った。
「あのときの喧嘩だって、しょせん売り言葉に買い言葉にすぎないもの。もとはといえば、あの子が武芸の授業であなたに意地悪したことが原因なのだし……あんまりあの子の言葉を真に受けないで貰えると助かるわ」
エリザベートはウィンクを残して歩み去った。一方、リサは唇を噛んでその場に立ち尽くしている。
「大丈夫。ナナさんは勝てます。何せ私が仕込んだのですから。それに中国四千年の歴史が、西欧騎士道に負けるわけありません」
リンは、リサの肩をぽんと叩く。しかし「勝つとか負けるとか、そういうことじゃないの……」とリサは言った。
「ごめんなさい! 私の軽率な行動で、みんなをこんなことに巻き込んじゃった! 本当にごめんなさい!」
ほとんど叫ぶかのような調子でリサが言った。それに対し、ナナはかぶりを振って応じた。
「私こそ、手袋を拾わなければこんなことにはならなかった——大ごとにしちゃったのは、むしろ私の方だよ」
「ナナ……あんた、私のために喧嘩を止めようとしてくれたんだよね……あ、あのときは、ありがと……」
「リサちゃん……!」
うるうると瞳に涙をためたナナが、リサめがけて勢いよくがばりと抱きつく。全身に金属製の鎧を纏ったナナに抱擁されたリサは、「痛い! 何か当たってる! 痛いってば!」とワーワー喚き、リンは「漫才は終わったあとでやってください」と冷静に告げた。
そんなこんなで、ついにナナとジュリアの決闘がはじまるのだ——。
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ジョストの試合は以下のようにして行われる。
対戦する両名は分厚く頑丈な甲冑を纏い、馬に乗り、長槍(ランス)構えて真正面からぶつかり合う。正面衝突を避ける目的で設けられた埒(らち)により、両者の走路は隔てられているが、その埒に沿って馬を全速力で駆るわけだから、ひとたびヒットした有効打の威力たるや凄まじく、騎手が木の葉同然に吹き飛んで落馬することもしばしばといった激しさだった。
騎士道文化においてジョストは中世から続く伝統武芸であるわけだが、同時に事故の絶えない競技としても知られている。スポーツ化し、ルールも整備され、武具の安全性も向上した現在では昔のような事故は減っているという話ではあったが、フランス国王アンリ二世がジョストによる傷が原因で死亡した逸話は有名であったし、いざ戦いに臨んだナナの足がすくんでしまったのも、無理からぬ話ではあったのだ。
さて、そんなナナが纏っている鎧は、長槍(ランス)で突かれる胸の部位が左右非対称で分厚く頑丈に作られており、非常に重い。兜に至っては騎士が実戦で使うものと比べて非常に厚く、また視野も狭く、少し動かすだけで重みにより首がぐらついてしまうような代物だった。
更には手に持った長槍(ランス)である。ナナの身長の倍以上あるそれは、ずっしりとした重量を孕んでおり、馬に乗って片手で扱うともなればその難易度は計り知れない。ナナはそれを保持するのもやっとという様子であり、リンから教わった技を出せるかどうかは未知数といえた。
ジョストの勝負は三本制で行われる。決着は「一本」——つまり相手を一撃で落馬させた場合、もしくは三本勝負を通じて「技あり」を合計三つ取った場合、もしくは相手が反則をしでかした場合、いずれかにより決まることになる。
ノーラ・オブライエンら審判三名は紅白の旗を手に馬場の方々へ散っており、それそれ別の角度から勝負の行方を見届け、ジュリアの有効打と認めた場合は赤の旗を、ナナの有効打と認めた場合は白の旗を掲げる手はずとなっていた。
審判長のノーラ・オブライエンが騎乗合図の笛を吹いた——それと同時に、ナナとジュリアは付添人(セコンド)の補助を借りながら各々の鞍に跨がっている。
観客の期待は、いまや最高潮に達しようとしていた。賭け屋(ブックメーカー)が賭けの締切を知らせるベルをけたたましい音で鳴らしている。一方、総員の注目の的となっているナナとジュリアは、それぞれ埒(らち)の両端に位置するスタートラインで馬に駐立姿勢をとらせながら、試合開始の刻(とき)を待っている。
「どんな結果になったところで、私は勝者へのインタビューを敢行するだけです。それが記者の仕事ですから……」
観衆の最前列、ユスティーナがぼそりと言った。それに対し、隣のペネロペは出店で買ってきたとおぼしきオリーボーレン(揚げドーナッツ)にぱくつきながら、試合開始の合図を待っている。
「両者向かい合って————はじめ!」
ノーラ・オブライエンの声が轟き渡るとともに、ナナの駆るフォックスハントが矢もかくやという勢いで飛び出した。同時にジュリアの馬も襲歩(ギャロップ)で加速を開始している。
ナナは真っ直ぐにジュリアを見据えたまま、手綱をしごき、馬を加速させ続けた。リン曰く——ジョストの勝負を決める要素はいくつかあるが、そのうちのひとつが「いかに素早く馬をトップスピードに乗せるか」だ。そこでフォックスハントの「名馬エクリプスの子」という競走用馬(ランニング・ホース)としての潜在能力が生かされる。一完歩、二完歩、三完歩とたたぬうちに、フォックスハントは信じがたいほどのスピードを叩き出した。ジュリアとの距離が一瞬にして縮まるさなか、「勝負を決めるのは最初の一本目です」というリンの言葉が脳裡をよぎる。
相手がナナのことを舐めてかかる最初の一本目が肝心だというのが、リンの予測だった。もとより不利な勝負を初心者同然のナナの方へ引き寄せるには、それしかないとも彼女は言った。そのためにはフォックスハントの能力をフルに使う必要があったのだ。
そして両者は交錯する——ナナは気勢とともにジュリアの胸当てめがけて長槍(ランス)を突き出す。ガツン、という金属と槍がぶつかり合う衝突音が轟き渡った。
両者は瞬く間にすれ違う——ほんの一瞬だけ、驚いたような顔をジュリアが浮かべていたような気がしたが、それどころではなかった。左肩を掠めたジュリアの攻撃で姿勢を崩し、ナナはひやりとした感触を味わったからだ。もう少し当たりどころがずれていたら、間違いなく落馬していたに違いない。
「一本目————有効打なし! 両者引き分け!」
浅い呼吸を繰り返しながら、ナナはフォックスハントの手綱にしがみついているのがやっとといった有様だった。想像以上にジョストは怖い——相手が繰り出す攻撃のヒットばかりでなく、落馬の恐怖とも戦わなければならないこの競技は、思っていた以上の精神力が必要だ。
「ナナちゃん……」
一本目が終わり、付添人(セコンド)のニコル、リン、カエデがナナのもとへ駆け寄ってくる。シュークリームのひとつをフォックスハントに与える間、ニコルは心配そうな声音でナナの名を呼んだものだった。
「大丈夫です。相手に有効打を取らせなかっただけでも合格点ですし、交錯地点はジュリアさんのスタートラインの方に寄っていました。あちらの想定していたスピードを、フォックスハントの能力が遙かに上回った結果でしょう。不意打ちは成功したと見るべきです——ジュリアさんはいまごろ驚いているでしょうね」
リンが分析結果を述べ、そして次の作戦を伝えた。
「相手に本気を出させたら負けです。いいですか、〈形意五行槍〉の技は三本目の勝負まで絶対に出してはいけませんよ。長槍(ランス)を保持しているのもやっと、という感じで二本目に臨むのです——敵の油断を誘ってください」
そして、最初の一本目で勝負が決まると確信していた観客たちがざわめく中、ペネロペだけが「あっはっは」と快活な笑い声を上げていた。
「まったくリンちゃんったら、噂に違わぬ策士っぷりだね! あの子はジュリア女史の本質を見抜いた上で作戦を立てている——うん、間違いない」
「どういうことですか?」
思わせぶりなことを口走るペネロペに、ユスティーナが怪訝そうな目を差し向ける。
「ジュリア女史に本気を出させないようにしているのさ。さしずめ一本目は『敵の長所は馬のスピードだけ、リンちゃんから習った槍の技を出している余裕さえない』と思い込ませることが目的かな……」
「侯爵家の名誉を背負ってジュリアさんは戦っているのです。手加減など」
「しているはずがない、できずはずもない——それは思い込みってやつだよブン屋ちゃん。ぼくの見立てでは、生まれてこのかたジュリア女史は『本気などこれっぽっちも出したことがない』……そこが彼女最大の弱点さ」
ユスティーナが目を見開くのを、ペネロペは満足そうな笑みとともに見つめ返す。そして各々の想いを乗せて、二本目の一騎打ちがはじまるのだった——。