第10話
「仮ライセンス狂想曲・第一楽章」
年が明けた一月初旬。ナナ、ニコル、リサ、エリザベート、ジュリア、リン、カエデ、ペネロペ、ユスティーナの九人は、街中のある屋敷を訪れた。仮ライセンス試験の実技科目を受けるためである。
仮ライセンス試験——それはいわば、メイドにとって「半人前未満」から「半人前」へ昇格するための試験に相違ない。この仮ライセンスを取っておけば、学生のうちから〈協会〉の仕事を受けることが可能になるのだ。
試験に合格することで得られるメリットは計り知れない。実地でメイドとしての経験を積み、更には報酬さえ受け取ることが可能となるばかりか、〈協会〉の仕事は学園から単位と認定される。
無論、仮ライセンス試験合格者といえどまだ「半人前」のメイドにすぎないのだから、〈協会〉の仕事は〈コミュニア〉のメイドによる監督のもと行う決まりになっている。いわゆる実地訓練(オンザジョブトレーニング)方式で、仮ライセンス保持者の学生たちは仕事をこなしていくわけだ。
そういうわけで、はやく一人前のメイドになりたいと願うナナのような生徒にとっても、この試験は是非とも合格しておきたいものに違いなかった。
試験の合否は筆記試験と実技試験の成績により判定される。筆記試験は語学、会計学、歴史学、政治学の四科目よにり成り立っており、各科目六割以上の得点であれば実技試験へ進むことが可能である。
普段からスパルタ式の座学教育に慣れている生徒たちにとっては、六割という合格点は低目のハードルといって差し支えない。筆記試験は著しく成績に難のある生徒をふるいにかける意図でしかなく、仮ライセンス試験において評価のウェイトが置かれているのは、むしろ実戦さながらの戦闘が含まれる実技試験の方なのだ。
試験がそんな仕組みであるものだから、ナナに対しリサなどは「あんたにとっては良かったんじゃない? 勉強より運動の方が得意でしょ?」などとからかい混じりに言ったもので、ナナはナナで「もーリサちゃんってば!」と頬を膨らませて抗議したものだった。
そして、実技試験の内容はメイドの実務を模擬したものとなる。実施期間は丸一日。九人一チームとなり、主人の身の回りの世話を丸一日行いながら護衛する。シンプルながら、メイドとしての総合力が試される内容だ。
ナナたち九人は、いまからそんな試験に挑もうとしているのだった。
「わぁ……本物のお屋敷だ……!」
実技試験が行われる屋敷へ到着するなり、ナナは目をきらきらと輝かせた。質素な白い漆喰の壁と黒い木材が何ともいえない格式を醸し出す、それなりに大きな二階建ての屋敷だった。
「チューダー様式の建築ですね。いまは〈協会〉の訓練設備ですが、もとは貴族の持ち家だったそうです」
リンが補足すると、ナナは「素敵!」といって門扉の内側へ駈け出した。庭はよく手入れがなされており、ここを出入りするメイドたちの細やかな気配りが見て取れる。そんなナナの様子を尻目に、ユスティーナは「侵入可能な経路は?」とリンに問い、リンはリンで「あとで詳細に確認しなければなりませんね」とあくまで現実的な受け答えをしているのだった。
この実技試験は、主人役である試験官の身の回りの世話をすれば良いだけではない。主人の命を狙う襲撃者の存在が設定されているのだ。受験者であるメイド学科生たちは己の持てる力すべてを使って主人を守り通す必要がある。ゆえに、屋敷のどこから敵が侵入してくるか、事前の予測を立てておくことは非常に重要な要素だった。
「こんにちは、まぁ可愛らしいお嬢さんたちですこと!」
主人役を務めるお婆さんが、屋敷の玄関を開けてナナたちを出迎える。
「私はカーラ・チャールトン。明日まで一日よろしくね、お嬢さんたち」
「ナナ・ミシェーレです! よ、よろしくお願いします!」
ナナは緊張の面持ちで、カーラと名乗ったお婆さんと握手を交わす。とても柔らかく、暖かな手だとナナは思った。
さて、ナナたちは主人役の試験官であるお婆さんとの顔合わせもそこそこに、各々支度をはじめることになった。ちなみに、主人役を務めるお婆さんとの挨拶を終えた直後、ユスティーナとエリザベートは「元メイド、ですかね」「所作からして間違いないわ。〈協会〉から派遣された〈紋付き〉のメイドね」などと小声で自らの所見を述べ合っていたのだった。
「さて、今回の段取りですが——くじ引きで三人×三チームに分かれてはどうでしょうか?」
メイド用の寝室へ集まった皆を前にして、まずリンが提案した。
「ご主人様の身の回りのお世話をする〈護衛班〉、頼まれたお使いをこなす〈任務班〉、襲撃が予期される勢力の情報を集める〈探索班〉。この三チームに分かれて交代で各役割を回すのです。九人全員が屋敷の中に固まるよりも、より細かい単位に分かれて行動した方が、何かと小回りも効くでしょう」
「〈任務班〉に仕事が割り振られていないタイミングはどうするのよ」
リンの提案に、リサが早速質問した。
「そのときは〈護衛班〉の補佐に回って貰います。心配せずとも、ご主人様役の試験官は次から次へとお使いを頼んでくるはずですから、〈任務班〉が暇をする時間はそうないと考えています。お使いの道中でトラブルに巻き込まれる、なんて仕込みもあるはずですからね」
「? どうしてそう言い切れるわけ?」
再びのリサの質問に対し、「ふっふっふ……」と不敵な笑みを浮かべたリンは、一冊の手帳を取り出した。
「ここにはニコルさんが料理研究会の先輩から入手した情報が書かれています。去年行われた実技試験についての情報です」
その一言に、皆が「おー」という歓声を上げた。去年の実技試験がどのように行われていたかを把握することができれば、一段と有利に動くことができるからだ。
「カンペなんてずるいわよ!」
「まぁまぁリサさん。これはカンペではありません。過去問の一種です。仮ライセンス試験の規定に、先輩から過去問を入手してはならないという文言はありませんでしたからね。こうした情報収集能力も仮ライセンス試験では問われていると解釈してみてはどうでしょうか」
呆れた、と言わんばかりの表情を浮かべるリサ。
「学園側は生徒側のそういった動きを半ば黙認しています。だからこそ、毎年少しずつ課題の傾向を変えてくるのでしょう。過去問で対策を立てた生徒の裏をかくような動きさえ、襲撃者が取ってくるほどだそうです」
今度はユスティーナがコメントし、「ま、いいわ」とリサが納得すると、ほどなくしてくじ引きが開始された。結果は以下の通りである。
(1)護衛班:ジュリア、リサ、カエデ
(2)任務班:ナナ、エリザベート、リン
(3)探索班:ニコル、ペネロペ、ユスティーナ
「やったっ! リンちゃんと一緒だね!」
「やめてくださいナナさん、暑苦しいです」
ナナにがばりと抱きつかれながら、なおもリンは話し続ける。
「ここで重要なのは〈探索班〉——ニコルさんたちです」
「え、私?」
唐突な指名に、ニコルは素っ頓狂な声を上げた。
「この試験で屋敷を襲ってくる敵は、街中に潜んでいるという設定です。屋敷に籠城して堅守を貫くもよし、外で情報を集めてアジトを特定し先に叩くもよし、というわけですが、攻めと守りを組み立てる手際が試験において主な評価対象となると私は考えます。より高得点を得られるのは、こちらから攻めて敵のアジトを叩く方でしょう」
「メイドの仕事は主人の世話のみにあらず。主人に仇なす者がいれば、時にはメイド自らが動く必要がある——そういうわけだね」
ペネロペがユスティーナに応じ、「主人を狙うテロリストを狩るのも、メイドの仕事のひとつなのさ」と不敵な笑みを浮かべたのだった。
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時刻は午後三時を回った頃合い。〈護衛班〉であるジュリア、リサ、カエデの三人が夕食の準備を進める間、〈任務班〉と〈探索班〉のナナ、エリザベート、リン、ニコル、ペネロペ、ユスティーナは護衛計画について話し合うことになった。まずは予期される敵の襲撃についてである。
「これが屋敷の見取り図です」
リンがテーブルの上に大判の見取り図を拡げた。屋敷は二階建てであり、一階には玄関と吹き抜けになっているエントランス、そして客間、ダイニング、厨房などがあり、二階には書斎や寝室が存在する。リンはそこにひとつずつチェックを入れながら説明した。
「主な侵入経路としては正面の門を通って玄関を破ってくるルート、厨房の勝手口を使って裏から侵入するルートの二つがあります」
「窓を破って入ってくることもあり得るわね」
「エリザベートさんの言う通り、過去の実技試験では、屋根からロープを伝って二階の窓を破り、侵入された例もあるそうです」
「まるで国軍の猟兵部隊みたいなやり口ですね」
「メイドの中には特殊な戦闘訓練を受けている人たちもいますし、国軍でのリクルート活動も盛んです。ユスティーナさんの喩え通り、猟兵から鞍替えしたメイドがいたとしても不思議ではありません」
「つまり、どこから侵入されるかわからない——油断は禁物ってわけね」
そう言うと、エリザベートはあるアイディアを提案した。
「鈴付きのトラップを仕掛けるのはどうかしら。ピアノ線を張り渡して、そこに鈴をぶら下げておけば、侵入者が引っ掛かった途端に音が鳴る。警戒は容易になるはずよ」
「敵の侵入経路——窓や裏口にトラップを仕掛けておくわけだね。よく使われる手だが、確かに効果は絶大だ」
ペネロペがコメントし、皆がその案に賛成した。
「さて——次は〈探索班〉の段取りを詰めましょう。まずは『これ』の解読からです」
リンは机の上に一枚の封書を置いた。宛名も差出人も、何も書かれていない封書である。これは試験開始時に主人役の試験官——チャールトン女史から預かったものだ。女史曰く、封書の中身には敵の隠れ潜んでいる場所を知っている情報提供者の居所が書かれているとのことだった。
主人を狙う敵勢力の役を演じているのは〈協会〉から派遣されてきた試験官、つまり本職のメイドたちだ。その試験官は皆が〈コミュニア〉——つまりは〈紋付き〉のメイドである。ただしそれ以上の情報はない。街中に隠れ潜んでいる情報提供者を探し、敵勢力の計画や居所を探る必要があった。そしてそのヒントめいたものは、試験にあたって出されているというわけだった。
封書を開き、中を検めると、一枚の紙片が滑り出てきた。どこかのノートから破り取られた紙切れ一枚に、意味不明なアルファベットの文字列が並んでいる。
「何これ?」
ナナが首を傾げている間に、リンはその紙を中空に透かしたり斜めの角度から見たり、特殊な仕掛けがないか確認した。そして、紙切れをじっと見ていたエリザベートが反応した。
「ヴィジュネル暗号……でしょうか」
「そうですね。換字式暗号の一種であることは間違いなさそうですし、かといって単一換字式暗号でもなさそうです。その線が濃厚かと」
「鍵の〈周期〉がわかれば良いのだけれど」
「計算してみます。紙を借りなければなりませんね」
リンとエリザベートの会話に、ナナとニコは「?????」とちんぷんかんぷんな様子である。そうこうしている間にリンは借りてきたノートへ猛烈な勢いで数式を書き込み、あっという間に暗号を解いてしまっていた。
「『焦げたパンを出すお店、二階の端から三番目』——どなたか心当たりは?」
リンが解読した文字列を読み上げると、ニコルがおずおずと手を挙げた。
「市場のお店かも……〈アルフレッド〉ってパン屋さん。二階が借家だったはずだから、そこの端から三番目の部屋に探している人が隠れてるって意味だと思う」
「アルフレッド大王の焦げたパンの伝説ですか……なるほど洒落た店名です。さすがはニコルさん、市場についてお詳しい」
リンに褒められたニコルは、照れくさそうに頭を掻いた。
そうして護衛計画を練る会議は散開した。ナナたち〈任務班〉へ早速主人のチャールトン女史からお使いの依頼がきたためである。ナナ、エリザ、リンはその対応へ向かう一方、ニコル、ペネロペ、ユスティーナは情報提供者に会うべく夕方の街へと繰り出していった。
「さあ皆さん、最後まで気を抜かず頑張っていきましょう! 何せこの試験、何が起こるかわかりませんから」
リンの言葉とともに、ナナたちはいよいよ実技試験がスタートしたのだと気を引き締めた。
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夕食後——ジュリアとリサは皿洗いに勤しんでいた。カエデはダイニングの片付けに向かったので、厨房にはジュリアとリサの二人きりということになる。くじ引きの結果とはいえ、何ともきまずい二人組での皿洗いだった。
「……」
「……」
二人して黙々と作業を続ける。皿洗いのあとは、銀食器を磨く作業も残っている。仕事量はそれなりに多い。そして、無言の時間に堪えかね先に声を発したのはリサの方だった。
「こ、この前のことだけどさ……」
「この前のこと——?」
何のことかわからないとばかりに、ジュリアは小首を傾げる動作で答える。
「武芸の授業のあと、更衣室でアンタにひどいこと言っちゃったでしょ、私……あのときのこと、謝ろうと思って……」
「そのことなら、ナナさんとの決闘の際、既に謝罪を受けたはずよ」
「改めて! 改めて謝ろうと思ったのよ!」
「二度謝る意味がわからないわ。私はあなたの謝罪を受け容れた。それで充分では?」
「……」
会話はそこで終わってしまい、話は長く続かない。二人は再び皿洗いの作業を継続させた。またしても気まずい沈黙が流れる。
「……私も、悪かったと思っているわ」
その言葉に、リサは信じられないようなものを見る目でジュリアを見つめた。ジュリアはジュリアでそんなリサのことを真っ直ぐな瞳で見つめ返し、そしてこう言ったのだ。
「私たちは喧嘩なんてする必要がなかった。あなたが怒っていた理由を私は考えるべきだったし、それが正しいことであれば受け容れる必要があった。それだけの話ではあるけれど——でも、反省の余地は大いにある。そうは思わない?」
そして、しばらく黙り込んでいたリサは、ようやく口を開き、こう答えた。
「……アンタ、何か悪いものでも食べたわけ?」
と。
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ナナ、エリザ、リンの〈任務班〉は、〈協会〉支部まで手紙を届けるお使いを済ませたあと、試験官の尾行を振り切らなければならなかった。これも試験に際してこなさなければならない課題のひとつである。事前に決めていた通り三手に分かれ、人ごみの多い経路をわざと選んで通り抜け、広場の銅像前で再合流する。
「振り切りましたか?」
「ええ、もちろん」
「試験中は油断禁物。まったく教訓深い試験ですね」
「ところでナナさんは?」
「まだここに到着していないようですが……」
日が暮れつつある広場にあって、エリザベートとリンがナナの身を案じていると、果たして彼女はやってきた。どうやら追っ手を撒くことには成功したらしい。尾行者らしき姿は見当たらなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息を切らせながらやってきたナナは、乱れた着衣を直しながら「つ、疲れたよ~」とリンの小さな身体に抱きつきながらこぼしたのだった。
「やめてくださいナナさん、暑苦しいです」
「リンちゃん、ひんやりしてて涼しい……」
「どうやって尾行を撒いたのですか?」
「? 思いっきり走っただけだよ。そしたらいつの間にか尾行の人がいなくなっちゃったんだ」
「さすがは体力バカですね。尾行してた人は脚の速さについていけなくなったのでしょう。力技にもほどがありますが、結果オーライというやつです」
そんな二人の様子を見て、エリザベートは口元に手を当て「ふふっ」と笑いをこぼしている。
「なんだか可愛い姉妹みたい」
「どっちが姉でどっちが妹に見えますか?」
「うーん、ナナちゃんがお姉さんで、リンちゃんがちょっぴり生意気な妹さんかな?」
「……ナナさんが姉というのは心外です」
「がーん! リンちゃんひどい……」
そうこう言いつつ広場を出て、夕方の市場を行き交う人混みの中を三人は連れ立って歩いている。街は広場を中心として東西南北に区画が大きく分かれており、北は官庁街、南は市場などがひしめく商業街、西は貴族や大商家などの邸宅が居並ぶ高級住宅街であり、東は庶民が暮らす家々が所狭しと居並んでいる。チャールトン女史の待つ屋敷は東の高級住宅街の中にあった。ちなみに、学園は街の北のはずれにある丘の上に位置している。
三人が真っ直ぐ屋敷へ戻らないのは、再び尾行者につかれることを警戒してのものである。なるべく人通りの多い南の市場を経由して屋敷へ帰ることで、少しでも尾行につかれるリスクを減らそうというのが狙いだった。人ごみに紛れてしまえば、それだけ敵に発見される可能性も低くなるのだ。
「ねぇ、あれは何かしら?」
「出店ですね。レモネードやお菓子などを売っているようです」
「ちょっと寄り道していかない?」
そう言うなり、エリザベートはナナとリンに振り返ってウインクすると、弾むような足取りで出店の方へ向かってしまった。
「ああちょっと、エリザベートさん!」
見かけによらずアグレッシブな貴族令嬢ですね……とリン。
「すみません、これを三つくださいな」
レモネードの出店の前で、エリザベートは勝手に注文を済ませてしまっていた。容姿端麗なエリザベート相手とあってか、出店のおじさんは頼んでもいないのに値段をまけてくれている。「いいの、いいの、私のおごり」とナナたちに笑いかけるエリザベートは、何やらとても楽しそうだ。
「ごめんなさいね、はしゃいでしまって。でも、こういうところへくるのは初めてだから」
「エリザベートさんのご実家は、確かナポリでしたよね。市場なんてこの街よりもずっと賑わっていそうなものですが」
リンが言うと、エリザベートは「『エリザ』で良いわ」、と言いながらレモネードを手渡す。
「本家がナポリ、分家がシチリアとローマにあるわね。どれもこれも大都市だけれど、私自身は盛り場へ出入りすることなんて許されてなかったから、こういう賑やかなところにきたことがなくて」
「そうだったのですか、これは失敬……」
「いいのいいの、気にしないで。リンちゃんのご実家は?」
「上海です」
「素敵! 私、いつかジュリアと一緒にアジアを旅したいと考えているの! ねぇ、上海ってどんなところ?」
「貿易港を抱える商都だけあって、かなり賑やかな街ですね。移民や流民も多いですから国際色もそれなりに豊かで、生まれ育った街とはいえ、飽きない街です」
うんうんと頷きながら話を聞いているエリザベートは、やはりとても楽しそうだ。そういえば、こうして彼女とごく普通に会話するという機会はいままでなかったと、話を聞いていたナナは思い至ったのだった。
容姿端麗な貴族の娘というだけあって、クラスの中のエリザベートは常に一目置かれた存在であり、常に彼女と行動をともにするジュリアという存在もあって、皆が一歩引いた視線から「憧れる」だけの存在というのが、エリザベート・アインフェリアという生徒なのだった。
そういうわけだから、友だちと交わすような会話をしたことがないのも当たり前といえば当たり前の話であって、ナナはひどく新鮮な思いにとらわれた。
平民であるナナやアジアからの留学生であるリンに対し、分け隔てなく気さくに接する物腰も、意外といえば意外だった。ジュリアとの決闘騒ぎの折、彼女はあくまでジュリアの主人として振る舞っていた。だが傍らにジュリアのいないエリザベートは、貴族然とした気品こそあれ、その態度は年頃の女学生そのものであるようにナナの目には映った。仮ライセンス試験という場がなければ、知りようのなかったエリザベートの顔を垣間見たような心地だった。
「ナナさんのご実家は?」
「フランスです! といっても、すっごく田舎の方にある村なんですけど……」
「フランスならお父様に連れられて小さい頃に旅したことがあるわ。もしかしたら行ったことのある土地かも。何て名前の村なのかしら?」
ナナが村の名前を口にすると、エリザベートはわずかに表情を曇らせた。
「その村って……まさか」
「あっ、ご存じでしたか。小っちゃな頃、村が盗賊に襲われたんです。でもメイドさんたちが助けてくれました。私、あのときのことが忘れられなくて……私もあんなメイドさんになりたいって思って、それで学園の入学試験を受けたんです」
「あなたの村を救ったメイドは——」
勲爵士(マーム)・シャルロット——エリザベートの唇はそう動いた。その名前を聞いた瞬間、ナナの胸中に得体の知れないざわめきが生まれる。しかし、その正体が何であるか、ナナ自身はまだ気づいていない。
「稀代のエスパティエだった勲爵士(マーム)・シャルロットは、王宮の命に背きメイドの軍勢を率いてナナさんの故郷を救った……でも、そのときの怪我がもとで一線を退いた……賞金首だった盗賊の頭目との一騎打ちで、本気を出せば怪我なんかするはずのない戦いだったのに、小さな女の子を守りながら戦ったがゆえに全力を出すことがかなわなかった……そう、聞いているわ」
「そうなんです。その『小さな女の子』が、小さいときの私なんです」
ナナの告白に、エリザベートは今度こそ言葉を失ったようだった。リンも同様の反応だった。
「でも、話はこれで終わらないんです。入学式の前の日、学園の寮に向かっているときのことです。馬車が傭兵団に襲われて、そこを助けてくれたメイドさんがいたんです——その人がすっごくかっこよくて、思わず小さいときに村を救ってくれたメイドさんのことを思い出しました。名前は——」
そこで、ナナは胸中にあったざわめきの正体に気づいている。
「——ルル・ラ・シャルロット」
エリザベートがナナの言葉を先回りした。そして、「シャルロット」という一語に、ナナの目が見開かれた。
「え、じゃあまさか……シャルロットさんって……」
「ええ、勲爵士(マーム)・シャルロットの、実の娘よ」
「おい、君たち」
唐突に響いた男の人の声に、ナナたち三人は警戒もあらわに後ろの方を振り返った。新たな追っ手が現れたのではないかと思ったからだ。
「君たち、学園の生徒だね。仮ライセンス試験の最中と聞いているが——試験は中止だ」
背後に立っていたのは二人組の憲兵だった。そのうちの一人、ひげ面の軍服の男が、ナナたちの方を真っ直ぐに見据えている。
「はやく寮へ帰りなさい。このあたりで〈紋なし〉メイドの目撃情報が上がっている。試験官のメイドさんたちは、そっちの対応に向かったそうだ」
~~~
一方、ニコ、ペネロペ、ユスティーナら〈探索班〉の三人は、情報提供者の居所へ向かっていた。折しもナナたちがいたレモネードの出店から一ブロック外れた通りを、〈アルフレッド〉なるパン屋目指して歩き続ける。
三人の先頭に立って歩くニコルは、魚屋や肉屋の軒先に立つ人々から代わる代わる声を掛けられ、その度に挨拶を返している。さすがの顔の広さだと、ペネロペとユスティーナは都度驚嘆したのだった。
さて、目当ての場所はあっけなく見つかった。〈アルフレッド〉の看板は、狭い路地を通った先にぶら下がっている。知る人ぞ知るパン屋と専らの評判とのことだったが、それにしても、一見ではそこがパン屋であることを知らず、通り過ぎてしまいかねないほどの外観だった。
「ごめんくださーい」とニコルは扉を開けて店主に告げ、二階の住人に用がある旨を伝えている。馥郁(ふくいく)とした焼きたてのパンの薫りが店内から漂ってきて、ペネロペなどは思わず「ぐぅ」と腹の音を鳴らしてしまう。ニコル曰く、この店のパンは市場で一二を争うほどの美味しさらしい。
「あー、ぼくとしてはチャチャッと終わらせて、早いところ夕食にありつきたいところだよ……」
「今晩の賄いは何でしょうか。リサさんたちは肉と野菜のスープを準備していましたが」
「ブン屋ちゃん、君意外と食い意地張ったところあるよね」
「……うるさいですね」
「もしかしてちょっと太った?」
二階へ続く粗末なつくりの外階段を昇りつつ、ペネロペがユスティーナの脇腹をつまむと、彼女は烈火のごとく怒り出し、癖毛で鳥の巣状になったペネロペの頭をぽかぽかと叩きはじめた。
「しっ!」
ニコルが口元に指先を当てつつ、静かな怒りを目元に湛え、ペネロペとユスティーナの方を振り返る。
「騒ぐとご近所迷惑です。静かにお願いします」
そうして再び階段を昇り、三人は二階に足を踏み入れる。ギシギシと鳴る床板からして、かなり年季の入った建物であることが窺えた。回廊の先にある部屋は全部で五つ。例の暗号文には「二階の端から三番目」とあったわけだから、奥から三番目の部屋が目的の場所であることが窺えた。その間、ペネロペとユスティーナはニコルについて「普段穏やかな人ほど怒ると怖い、ってぼくは思うんだ。ブン屋ちゃんはどう思う?」「同感です。ニコルさんだけは絶対に怒らせてはなりません」とひそひそ声で話し合った。
三人は目的の部屋の前まで到着した。あとはノックをして中にいる情報提供者と会うだけだ。
「おはようございまーす」
ドアをノックしながらペネロペが言った。すると、ほどなくして開けた扉の隙間から男が顔を覗かせた。何とも貧相で、陰気な顔つきの男だった。
「君たちか。待っていたよ。さ、中へ——外だと誰に聞かれているかわからないからね」
その言葉に従い、三人は「お邪魔します」の声とともに部屋の中へ入ってゆく。
「それにしても、よくあの暗号文が解けたね」
「ぼくたちのクラスメイトに天才と秀才が一人ずついまして、解くのにそう時間はかかりませんでしたよ」
「そうか、今年の一年生は優秀なんだな。君が言う「天才」とはリン・ファンのことだろう? 清国からきた、とても優秀な生徒だと聞いている。まったく学園は良い生徒を引き当てたね」
「えっへへ、いやーそれほどでも……」
「あなたが褒められているわけではありませんよ」
得意げなペネロペに対し、ユスティーナがあくまで冷静に言った。
「ま、立ち話も何だ。茶でも淹れようか」
「あ、お構いなくー」
ペネロペはにこやかに答え、そして男が背中を見せた瞬間——その腕を絡め取り、床めがけて叩きつけた。ドシンという凄まじい音が響き、部屋中の家具がグラグラと揺れる。突然の出来事に、他の二人は言葉を失う。
「ちょっと! あなた何をやって……!」
呆気に取られたユスティーナとニコルをよそに、ペネロペは男の腕関節を深く極め込む。少しでも抵抗しようと動けば肩が外れるようになっている極め方だった。それが日本の柔術仕込みの技であることを、男もユスティーナたちも、知る由などない。
「お前偽物だな」
唐突なペネロペの言葉に、ユスティーナとニコルは驚愕を覚えた。
「何のことだ……くそっ、馬鹿な真似はよせ……!」
「まだシラを切り通すつもりだな。でも無駄だよ。お前、合い言葉を知らなかっただろ?」
「合い言葉……?」
男が呆けたような声を発する一方、ペネロペは得意げな顔を浮かべる。
「暗号文のメモは一枚じゃなかったのさ。一階のパン屋の店主から、そこのニコルが預かったのが二枚目だ」
「何……だと……」
すると、ニコルが懐から二枚の紙片を取り出した。一枚は屋敷でリンとエリザベートが解いてみせた暗号文。そしてもう一枚は、一階のパン屋の店主から先刻こっそりと手渡された暗号文だった。それら二枚の紙は、ともにノートの一ページから破り取られたような形状をしており——その破れ目どうしをつなぎ合わせると、一枚の紙になるのだった。
「合い言葉はニコルが受け取った二枚目に書いてあったよ——訪問者が「おはようございます」とノックしたら、お前は「おいおい、もう夜だぞ」と返す決まりになっていたんだ。そのことを知らなかったってことは、あんたは情報提供者に成り代わった何者かってこと。そうだろう?」
「畜生……何てこった……」
「メモを二枚用意しておく。単純だが効果は実に絶大だ。偽造防止と情報漏洩リスクの分散——試験官たちは良い手を考えたものだね。そういう工夫をこらしておくことで、お前みたいな間抜けが易々と尻尾を出してくれる」
「二枚目の暗号文を解いたのは、お前か……」
「暗算で充分だよ。ぼくは一度目にしたり思い浮かべたりしたものを、頭の中にあるキャンバスにスケッチすることができるのさ。そういうちょっっぴり特殊な訓練を受けているからね」
「何者だ……お前……」
やっとの思いで絞り出されたであろう男の声に、ペネロペは不敵な笑みを浮かべつつ応じた。「どこにでもいる、ぼくはただの学生だよ」と。
~~~
銀食器の磨き作業を終えようとしていたジュリアとリサは、虫の知らせとでもいうべき感覚に従い、同時に背後を振り返った。だがそこには誰もいない。しんと静まり返った厨房の風景があるだけだった。
しかし、先刻覚えたはずの胸騒ぎだけは本物だった。二人は顔を見合わせ、そして同時に頷いた。
「聞こえた……わよね」
「やっぱりアンタも気づいてる?」
と、次の瞬間、ガタン、という音が階上から聞こえた。二階にはチャールトン女史のもとへ寝間着を届けに行ったカエデがいるはずだった。
「鈴付きのトラップは?」
「作動してないみたい——ってことは」
そう言うやいなや、先に飛び出したのはリサだった。その後を追うようにしてジュリアも厨房から飛び出している。それぞれの武器を手に、既に二階にいるであろう侵入者と戦うための覚悟は決まっていた。
間違いない——とリサは思った。敵は既に屋敷への侵入を終えている。鈴付きのトラップが作動していないということは、敵はトラップを破って屋敷内へ侵入を果たしたことを意味しており、それらの推論の果てにあるのは、即席のトラップ程度であれば難なく見破ってしまうほどの手練れが階上にいるという事実だった。果たして太刀打ちできるか——自信があるといえば嘘になる。だがやるしかない。ジュリアもリサと同じく、そのように思っていた。
「ブン屋ちゃんが言ってたこと、あながち冗談じゃないかもよ。敵は軍の猟兵クラスの実力かも」
「ブン屋ちゃんって——ユスティーナさんのことかしら」
「あの子のあだ名よ。ま、本人はそう呼ばれるのを嫌がってるけどね」
階段を駆け上がり、二人は二階へ到着する。敵の姿はまだ見えない。
「カエデ! 無事なら返事して!」
リサが叫ぶと、ジュリアはその口元を押さえにかかった。
「声を抑えて——敵に位置を知られてしまう」
すると、回廊の奥から複数の足音が聞こえてきた。敵は姿を隠す気などないらしい。見くびられたものだ、という思いとともに、リサとジュリアは侵入者たちを睨めつける。
「リサ・キャロットとジュリア・エインフェリアか——」
漆黒の影が合計三つ——リサたちの眼前に立っていた。試験官か、とリサは思ったが、しかし何やら様子が変だ。学園の派遣した試験官であれば、ここまで明白な殺意を向けてくることなどないはずだからだ。
「——日本人の子はどこへ行った」
大小二振りの日本刀を腰に差したメイドが、影たちの中から歩み出て声を発した。長く垂れた黒髪の隙間から、声の主は炯々とした光を放つ赤い瞳を覗かせている。その目に湛えられた光は、リサたちに向けられた敵意そのものといって差し支えない。
「日本人の子——カエデのことを言っているのかしら?」
「その子を差し出せ。大人しく従うのなら、お前たちに手出しはしない」
どういうこと——とリサは思う。仮ライセンス試験の設定に従えば、侵入者が狙うのはカエデではなくチャールトン女史であるはずだ。しかし、目の前に立つ赤い瞳のメイドはカエデの身柄をよこせと言う。状況の把握が追いつかず、混乱は益々増してゆく。
「アンタたちの狙いはチャールトンさんのはずでしょ……」
「あの婆さんなら、そこの部屋で眠っている。元コミュニアというから多少期待はしていたが、老体は老体。とんだ雑魚だった」
「……カエデを攫って、どうする気よ」
「お前たちが知る必要はない」
赤い瞳のメイドが嘲るかのような声を発した直後、無言を貫いていたジュリアが先手必勝とばかりに飛び出した。前傾姿勢で駈け出しつつ、構えたレイピアを敵の急所めがけて突き出さんとしている。目にも止まらぬスピードに、リサは虚を突かれたような思いを味わった。
「貰った!」
ジュリアはそう叫び、必殺の一撃を叩き込む。敵のメイドは腰の刀に手を掛けてさえいない。勝負は決まったも同然だった——が。
「甘い」
抜刀一閃——常軌を逸したスピードで振るわれた居合抜きの一撃で、ジュリアの攻撃はいとも簡単に弾かれた。攻撃の矛先を逸らされ、たたらを踏むようにしてジュリアの身体はつんのめり、その勢いを利用したかのようなカウンターの爪先蹴りを喰らわせられる。「うっ」という呻きひとつを上げて、ジュリアは後退しつつ、リサのところまで戻ってきた。
「呼吸の『隙間』を読んだか——多少はやるようだが、〈奥義〉の会得もままならない学生相手に、私が遅れを取ることなどありえない」
「ジュリア!」
リサは叫び、ふらつくジュリアの身体を抱き留めて、眼前の敵を睨み据えた。射貫くような視線でこちらを見つめる赤い瞳の威圧感に、思わず後じさってしまいたくなる気持ちをぐっと堪える。やれるかどうか自信はないが、ここで黙って引き下がるわけにはいかなかった。意地というものを見せなければならないとさえ思っていた。
ジュリアを傷つけカエデを攫うと宣言している敵相手に、怒りの感情が沸き上がっている自分を、リサは強く自覚した。
「舐めんじゃないわよ……!」
剣を握る手に力を込め、一歩を踏み出そうとしたその瞬間——。
「やめて!」
背後からカエデの叫びが聞こえてきた。奥の部屋の扉がいつの間にか開かれている。リサたちの声を聞き、隠れていた場所から出てきたのであろうことは容易に推察できた。
「どうした、あの婆さんから「隠れていろ」と言われていたのではなかったのか」
赤い瞳のメイドが、カエデを見てあざ笑う。
「リサちゃんとジュリアちゃんが危ない目に遭ってるんだもん……隠れてなんて、いられないよ……それに、私があの人たちについていけば、みんな傷つかなくて済むんでしょ……」
「カエデ! それだけはダメ!」
震えるような声を出すカエデに対し、リサは声の限り叫んで言った。敵がどういう腹づもりなのかはわからないが、しかしカエデのことは絶対に守ってみせる。ジュリアも同じ気持ちなのであろう。カエデを庇うようにレイピアを構え、リサと並び、再び敵の三人のメイドと対峙する。
「いい? みんな無事で、この状況を切り抜けるの。アンタだけ犠牲になって私たちだけ助かるなんて、そんなのは嫌よ」
「リサちゃん……」
カエデははっとなったようにリサを見つめる。
「いい? ジュリア。覚悟、決めるわよ」
「当然です」
その言葉を交わした直後——赤い瞳のメイドの脇に控えていた一人が床を蹴り、目にも止まらぬ速度でリサたちの間合いへ踏み込んできた。その手に携えられた剣が真一文字に振るわれる様を、リサは剣の一撃で弾き返す。続いてジュリアがレイピアの切っ先を敵に突き出して牽制する。更にリサは気勢とともに敵の急所めがけて剣を振った。だが——その一撃はいともたやすく弾かれた。
時間にして僅か数秒に満たない攻防だった。そして再び間合いが開く。肩で息をしつつ、敵の技量の方が遙かに上だとリサは認めざるを得なかった。特に赤い瞳をしたあの中央に立つ敵メイドの実力は、これまで経験したことのない領域にあるそれだろう。先刻の攻防の衝撃により、床に尻餅を突いてしまったカエデの方を振り返り、やれるか、否、やるのだ——と気合いを入れた。
と、そこでジュリアが抑えた声でリサに告げた。
「リサ、気づいているかしら。あいつらのこと……」
「ええ、もちろん。あいつら、メイド服を着ているけれど、〈コミュニア〉の徽章をつけていない」
リサは答え、剣を再度構え直す。
「ちっ、敵は〈紋なし〉の連中か……」
苦々しく吐き捨てられたジュリアの言葉に、赤い瞳のメイドは口の端を吊り上げて嗤ったのだった。