第23話

​「帰結」

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 ルル・ラ・シャルロットは考えた。この湧き上がるような力は何なのか。異様に冴えた思考は何なのか。そしてこの喜びにも似た感情は——何なのか。

 最初に違和感を覚えたのは、〈ジョーカー〉と剣を交えてから、わずか三手目でのことだった。

 凄まじい速度での攻防を繰り広げながら、敵のすべての攻撃があらかじめ「そういうタイミングでやってくる」と手に取るようにわかったのだ。

 それと同時に、まるで時の進みが遅くなったかのような錯覚さえ覚えた。敵の動きが、スローモーションもかくやという動きで見えるのだ。

 想像だにしない次元にまで集中力が高まっているのだ。ルルはあくまで冷静に、そう分析した。こんな感覚はいまだかつて味わったことがなかったが、しかしその理由はすぐにわかった。〈ジョーカー〉の剣が、いまだかつて発揮したことのない領域にまでルルの本気を引き出している。

 飛んでくる剣を受けて弾き、また弾く。まるで暴風雨のような攻撃だったが、それよりも何よりも、一撃という一撃が凄まじく重い。攻撃を受けるたびに剣を握る腕の骨がビリビリと震え、踏ん張った靴裏は石造りの床にめり込んで、幾重もの蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた。

 だが、〈ジョーカー〉は休ませてなどくれない。常人なら反応さえ追いつかぬほどの速度で、次々と致命打となりうる一撃を繰り出してくる。それも予想だにしない角度とタイミングからだ。

 ルルはそうした攻撃を完璧に受け流し、弾き、ときには躱(かわ)し、正確無比な反撃を見舞ってゆく。だがそれらのいかなる攻撃さえも、〈ジョーカー〉には決して届かなかった。

 ルル自身、こんな強敵とはいまだかつて戦ったことがなかった。

 そこでふと気づいてしまう。もう、相手に遠慮することなど何もないのだ、と。なぜならば、いま目の前にいる相手は、どんなに全開の本気を出してもすべてあまねく「受け止めてくれる」からだ。

 そうした事実を認識するや、突如、抑えきれない興奮がルルの胸中に湧き上がった。まるで火口から噴き出す溶岩のごとき熱が、頭の芯に溢れ出すような感覚であった。

 この感情は——そうだ、興奮だ。純然たる昂ぶりだ。思考は明確なひとつの結論を得る。

 〈ジョーカー〉との戦いを通じ、ルルはこれまで感じたことのないほどの喜びを覚えつつあった。それはまさしく、相手に気遣うことなく全力全開の「本気」を解放できる喜びだった。

 この地上で〈ジョーカー〉を置いて他に、ルルが本気で剣を振るえる相手などいるだろうか? 否、そんな相手は〈ジョーカー〉以外に存在しえない。ルルは確信を持ってそう思った。

 であればこそ——心のうちに秘めていた欲望、すなわち「全力全開の本気でこの相手とぶつかってみたい」という欲望が、にわかに鎌首をもたげてくるのをルルは感じた。

 

「嬉しいぞ、ルル・ラ・シャルロット——!」

 

 剣を交えながら、〈ジョーカー〉はそう言ったものだった。

 

「私は願った。再び強敵と相まみえ、死力を尽くした戦いへ臨むことを。そして私に比肩しうる実力を持ったメイドはお前を置いて、他にはいない。わかるか? 私の願いを充足させてくれる存在は、お前を置いて他にないのだ——!」

 

 願いの充足——そうした想いが、ルルには痛いほどわかってしまう。〈ジョーカー〉もまた、ルルと同じく圧倒的強者ゆえの孤独を背負っていたのだ。すなわち、あまちに強すぎるがゆえに、誰に対しても本気で剣を振るうことができない、という孤独だ。

 

「嬉しいぞ。〈里〉で剣を交えたあの日を覚えているか? あの日、お前はいつか私を超える逸材になると確信したのだ。それがどうだ。いまのお前は私の想像を超えて強くなっているじゃないか——」

 

 歓喜に満ちた声で〈ジョーカー〉は言う。無論、ルルとてかつての〈ジョーカー〉と〈里〉で剣を交えたあの日のことを、いまもって忘れたことなどありはしない。

 あの敗北と屈辱が、ルルをここまで強くしたのだといっても過言ではなかった。かつて喫した敗北を絶対に乗り越えてみせる。そう念じ、ただひたすらに己を鍛え上げた日々が、いまのルルを形成していた。

 そうか、シャルル・ド・アントリューシュとの再戦を、自分はこれほどまでに待ち焦がれていたのかと、ルルはいまさらながらの気づきを得て、戦いのさなかに瞠目した。

 命令違反をしてでもこの決戦の場にやってきた理由は何だったのか。その実、自らにかつて決定的な敗北を与えた、シャルル・ド・アントリューシュとの再戦を心の底から望んでいたからではなかったのか——?

 ルルの心は揺れ動いた。同時に、〈ジョーカー〉の剣が胸先数ミリの位置をかすめていった。〈フォルセティ〉謹製の防刃メイド服が裂け、わずかな鮮血が飛び散ってゆく。〈ジョーカー〉の攻撃を防ぎきれなかったのだ。

 

「ほう、いい顔になってきたじゃないか……!」

 

 返り血のついた白皙(はくせき)の顔を笑みのかたちに歪めながら、熱の籠もった口調で〈ジョーカー〉は告げた。

 

「いいぞ。いまのお前の顔は、獲物の血に飢えた狼の顔だ。それだよ、私が待ち望んでいたお前の顔は……!」

 

 わずかに一歩踏み出せば、必殺の圏内に相手を捉える間合いであった。剣を構え、両者は再び動きを止めて対峙した。触れれば切れるような緊張感が、辺り一面の空気を圧している。

 

「しかし、剣捌きにまだ不殺の慈悲を残しているな。遠慮することはない。私を殺すつもりで掛かってこい……!」

「——では、遠慮なく行かせて頂きます」

 

 瞬間、ルルを覆っていた気配が膨れ上がった。ドス黒い殺気を纏う気配だ。常に優雅に美しく戦う普段のルルからは、まるで想像もつかないような殺気であった。

 

「……素晴らしい」

 

 感に堪えない。そんな調子で〈ジョーカー〉が言った。瞳孔を開かせ、髪を逆立て、青白い炎のようにも見える「気」を全身から立ち上らせたルルの姿を、彼女は官能的ともいえる眼差しで見つめている。

 

「それでこそ私に匹敵する者……私をおののかせ、恐怖させ、脅威であると想わせるに足りる者……素晴らしい、何と素晴らしい……!」

 

 そして〈ジョーカー〉はぶるっと全身を震わせ、告げた。

 

「怖ろしい……私はいま、お前をとてつもなく怖ろしい脅威として感じている……!」

 

 ルルの開ききった二つの瞳孔は、ただ真っ直ぐに標的たる〈ジョーカー〉を捉えている。射貫くような視線という表現すら生易しい、ほとんど空洞のような円い暗闇が二つ、その双眸に宿っているかのような迫力であった。

 

「ああ、こんな恐怖を感じたのは初めてだ……今日ここで殺されるかもしれないという恐怖、スリル、高揚感……これこそが私が求めて止まなかった戦(いくさ)だよ……!」

「——どういった結末が訪れようと、決して恨まないでくださいね。私の全力は、あなたほどの使い手であっても、受け止め切れないかもしれません」

「フフフ……ハハハハハハ、ハハハハハハハ!!!」

 

 〈ジョーカー〉は哄笑を上げたかと思うと、笑みの表情を一瞬のうちに引っ込めた。そこにあったのは、氷点下の殺意をたたえた殺戮者の顔だ。

 

「……本気のお前に殺されたのだとしたら、それこそ私にとっては本望だ」

 

 ルルが剣を構え直し、〈ジョーカー〉も構え直した。互いの剣先が互いの喉元に向けられ、瘴気とも呼べる両者の殺意は、周囲の空間さえ歪めてしまいかねないほどの圧力を放っていた。

 これから始まるのは戦いでも力比べでも何でもない。持てる力のすべてを総動員した、純然たる闘争——すなわち殺し合いだ。

 

「ルル・ラ・シャルロット!」

 

 突然、声が響いた。〈ジョーカー〉のものではない。第三者の声だ。

 

「そいつの側に引っ張り込まれちゃならない! メイドの四原則を思い出せ!」

 

 救援にやってきた〈紅目のクリス〉の叫びだった。ビッグ・ベンの鐘楼を全力で駆け上がってきたからだろうか、その声音には、荒い吐息が混ざっている。

 

「いまのお前は、美しくもなければ、清らかでもない! メイド道を殺人のために使ってはならない! すべてのメイドの規範であり象徴であるお前が、メイド道を捨てるなどということがあってはならない!」

 

 クリスに続き、大剣を携えたマージョリー・アスクウィスも声の限り叫んでいる。それを傍目に見た〈ジョーカー〉は、鼻白んだような表情を見せる。

 

「邪魔だ。消えろ——」

 

 同時に、衝撃波を纏った斬撃が、クリスとマージョリーに襲いかかった。受け止めることなど不可能な威力だと悟った二人は、緊急回避動作を取りつつ〈ジョーカー〉の両翼へ散開する。間一髪のタイミングでの回避であった。

 

「まったくもって興ざめだな。せっかくいいところだったというのに……」

 

 薙いだ剣を涼しい顔で構え直す〈ジョーカー〉を前に、クリスとマージョリーは目配せし合う。まともにやり合って勝てる相手ではないと、一撃受けたのみで判断を終えていたからだった。

 だとすれば、〈ジョーカー〉相手にこれまでたった一人で持ちこたえていたルルの実力とは、一体いかなる次元のものなのか? 稀代の〈エスパティエ〉であるマージョリーをもってしても、想像を巡らせるのは困難だった。

 

「……三対一だ。いくらお前とて、この形勢では厳しかろう」

 

 マージョリーが言った。あくまで焦燥を悟られぬよう、ポーカーフェイスを貫いたまま。

 

「強がりはよせ。烏合の衆が二人ばかり増えたところで、状況は変わらん」

 

 だが、と〈ジョーカー〉は言った。

 

「邪魔者は邪魔者だ。手っ取り早く消えて貰うに越したことはない——たとえばこんな風に、だ」

 

 〈ジョーカー〉が右手に取り出したものを見、「まさか」と思う。いくら〈ジョーカー〉とて、そんな自殺まがいの手に出るとは思っていなかったのだ。

 〈ジョーカー〉の右手にあるのはおそらく、起爆装置だ。このビッグ・ベンの基部に仕掛けられた爆薬に点火するためのスイッチに相違ない。クリスとマージョリー、そしてルルの三者は床を蹴り、敵の間合いへ飛び込むことも厭わずに駈けだした。装置のスイッチが押される前に、何としても阻止しなければならなかった。

 そんな三人の必死の形相を涼しい顔で見つめつつ、〈ジョーカー〉は言った。ただ一人、ルルだけに向けて。

 

「なぁ、ルル・ラ・シャルロット——そこの邪魔者二人は別として、お互いこの程度で死ぬわけもあるまい?」

 

 機械仕掛けのスイッチが押されると同時に、幾重もの爆轟と地鳴りのような音が轟いた。床が徐々に大きく傾ぎだす。塔の基部が爆風で吹き飛ばされたからだ。ビッグ・ベンが倒壊しかけているのだ。

 

「ハハハ、ハハハハハハハッ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ————!」

 

 〈ジョーカー〉の高らかな哄笑が、破壊をもたらす轟音の中に響き渡る——。

 

 ~~~

 

 王立裁判所へ突入したマリエールの耳にも、遠くから轟く爆発音が聞こえていた。遠く南西の方角、ウェストミンスターにある議事堂の方面から聞こえたことはすぐにわかった。

 まさか、ルルやマージョリーたちが失敗したのか。そんな疑念が脳裡をよぎる。だが、いまは彼女たちの身を案じている場合ではなかった。マリエール自身も、窮地といえる状況に陥っていたからだ。

 

「投降しなよ。何、俺らは捕虜を手荒に扱ったりしないさ……捕虜の気持ちは、他の誰よりも分かっているつもりだからね」

 

 巨大な法廷にあって、邪悪そのものといった笑みを浮かべ裁判長の席に腰を下ろす〈エース〉が言った。悪意に満ちた笑みであった。その顔には失明した右目から頬にかけて真一文字に刻まれた傷がある。まるで数字の〈1〉を象ったかのような、痛ましい傷だ。

 

「……投降したところで人質を助ける気はない。私にはそう聞こえるのだけれど」

 

 剣を構え、マリエールは毅然とした態度でそう応じた。彼女の眼前には、裁判官や裁判所職員の者たちの姿がある。いずれも縄で縛られ「助けてくれ……」という怯えきった声を発している。なぜ彼らはそこまで恐怖しているのか——法廷の中央に、山と積まれた爆薬があったからだ。

 そして、その起爆装置を握っているのはマリエールと相対する〈キング〉であった。〈ナンバーズ〉は『人間の盾』を用意して王立裁判所でマリエールを待ち構えていたのだ。

 

「諦めろ。状況は既に、お前ひとりでどうこうできる次元を超えている」

 

 〈キング〉が言うと同時に、またしても遠くから爆轟が聞こえてきた。同じく議事堂の方角からだ。遅れて響く地鳴りのような震動に、法廷の天井からパラパラといくつもの破片が落下してきた。『人間の盾』にされた人質たちは、もはや恐慌状態に陥りつつある。

 

「ビッグ・ベンの様子が気になるかい? 仲間の身を案じている場合じゃあないと思うんだが」

 

 小馬鹿にしたような調子で〈エース〉が言った。

 

「……あなたたちだって、〈ジョーカー〉の無事が気になるのではなくて?」

「まぁ確かに、予定よりも早い起爆だったな。でも、〈ジョーカー〉は何があっても死ぬわけがない。俺たちにはそれがわかる」

 

 マリエールの問いかけに、わかってないなぁと言いたげな顔で〈エース〉が答えた。

 

「それよりもこの状況、〈フォルセティ〉のマリエール・ウィークエンドならどう切り抜ける? 聞かせてくれよ。〈フォルセティ〉参謀役の見解ってやつをさぁ」

 

 邪悪な笑みを浮かべる〈エース〉の顔を、マリエールは射貫かんばかりの視線で睨み据えた。だが『人間の盾』という卑劣な手を前に、下手な真似に出られない状況は変わらない。

 同時に、マリエールは自らの背後の気配にも注意を払っていた。マスケットの銃口を突きつける〈セブン〉がいたのだ。下手に動けばトリガを引く——そう言わんばかりの気配を発する〈セブン〉は、マリエールの背にマスケットの銃口を押し当て、「観念してくだサイ」と言い放ったものだった。

 

「フフフ……本当に良い気味だ」

 

 〈エース〉は笑った。法壇上の革張りの椅子へ鷹揚に腰掛け、マリエールを見下すかのような視線さえ寄越してくる。

 

「学園ではあんなにお高く止まっていたマリエール様が、だ。いまや俺の手のひらの上で転がされて冷や汗かいてやがる……ハハッ、とても良い気分だよ。この気持ちが分かるか? ま、お前にゃ分からんだろうな」

 

 俺は〈フォルセティ〉がとても羨ましかった——と〈エース〉は言う。

 

「知ってのとおり俺は学園卒の元〈コミュニア〉だ。卒業後は軍情報部でスパイ同然の仕事をしていたよ。地を這い泥を啜って、〈フォルセティ〉の栄光の影でひたすらに汚い戦争を戦い抜いた……学園じゃお前ら四人の次くらいに良い成績だったのに、だぜ? 卒業後の待遇は雲泥の差だよ」

「……」

 

 〈エース〉の独白は止まらない。

 

「俺だっていつかは表舞台で華々しく活躍したいと思っていた。それこそ、お前ら〈フォルセティ〉みたいにな。でも現実は違った。来る日も来る日も補給さえ受けられない最前線で、大ドイツ兵に占領された街を偵察して、レジスタンスを訓練して、そんで最後には敵に捕まってひどい拷問にかけられた。この右目の傷は、そのときのものさ」

 

 右目から頬にかけて刻まれた傷跡を、〈エース〉は愛おしげに指でなぞる。

 

「いつか祖国のメイドが俺を救いに来てくれると信じて、どんなにひどいことをされようと収容所の中で耐え続けた……で、実際はどうだったかって? 捨てられたんだ。最初からそんなやつはファルテシア王国にはいなかった、なんて風なツラをされてな。とんだお笑い草だ」

「……だからあなたは自分を収容所から救い出してくれた〈ジョーカー〉に忠誠を誓った。そういうことね」

 

 マリエールの言葉に〈エース〉は「ああ」と頷いた。

 

「〈ジョーカー〉は俺に復讐の道筋を示してくれた。俺を捨てた祖国に対する、復讐の道筋だ」

「あなた個人の怨みと、そこで人質になっている者たちは関係ないわ」

「関係あるさ。俺にとっちゃファルテシア人の役人ってだけで復讐の対象なんだよ。どんだけの数を殺そうが、帳尻なんて合うはずもない」

「……ここで爆発を起こせば、あなたたちだって無事では済まないでしょう」

「〈フォルセティ〉の一人を道連れにできれば、大局から見ればそれだけで充分な戦果だ」

 

 〈エース〉のかわりに〈キング〉が答えた。決然とした口調であった。

 

「それが〈ジョーカー〉の命令だとでもいうの……」

 

 〈キング〉は頷く。迷いさえなく。

 

「〈フォルセティ〉を討てるのであれば、相打ちでも構わない。ジョーカーは我々にそう命じた」

「〈ジョーカー〉はあなたたちを都合の良い兵力として利用してるだけよ」

「お前に我々〈ナンバーズ〉の何がわかる! 〈王宮メイド〉風情が、我々の何をッ!」

 

 突然、〈キング〉が激情もあらわに言い放った。一方のマリエールの表情は動きもしない。

 

「……あなただって元〈王宮メイド〉じゃない。ステファニー・テレジア」

「確かにそうだ。だが、いまは違う」

 

 なおも激情を覗かせる声で〈キング〉は言う。

 

「私はもう〈王宮メイド〉ではない。ファルテシアの臣民でもない。影を生きる、〈ナンバーズ〉の一員だ」

 

 〈キング〉は元〈エスパティエ〉にして元〈王宮メイド〉だ。モミジの部隊に属していた過去があるのだ。

 〈エスパティエ〉時代、〈ジョーカー〉ことシャルル・ド・アントリューシュの右腕として活躍していたのが、〈キング〉ことステファニー・テレジアである。

 シャルル出奔後、ステファニーは後を追うようにして行方不明となっていたはずであったが、しかしまさか〈ナンバーズ〉の一員になっていたとは。

 最初そのことを知ったマリエールは心底驚愕し、困惑したものだったが、しかしいまの〈キング〉の目を見てはっきりと確信した。直観ともいえる気づきだった。

 〈キング〉は〈ナンバーズ〉の大義に関心はない——あるのはただ、〈ジョーカー〉への個人的感情だけだ。マリエールが〈ジョーカー〉を悪しざまに言った瞬間、感情に任せて激昂したのが何よりの証であった。

 

「あなたは〈ナンバーズ〉の、いえ、〈ジョーカー〉のためなら死ねるというの……」

「〈ナンバーズ〉全員がそうだ。〈ジョーカー〉のためなら、我々は命さえ投げ出す覚悟を持っている」

「それこそ良いように利用されているだけね。あなたたち、洗脳されている自覚はある?」

「ほざけ!」

 

 〈キング〉が怒鳴った。やはり——とマリエールは己が内の疑念を確信に変える。〈ジョーカー〉への個人的感情で〈キング〉は動いている。こういう手合いは厄介だ。組織に忠誠を誓う者よりも、ことによると死を厭わない傾向が強いからだ。刺し違えてでも相手を殺す、という執念で立ち向かってくるから始末に負えない。

 

「お前にはわからないだろうな……我々が、私が……〈ジョーカー〉になぜ命を預けているのかなど……」

「信頼する上官に命を預けるのと、言われるがまま命を捨てるのとでは全然違うわ」

「同じことだ。〈フォルセティ〉には、理解できんだろうがな——」

 

 と、そのときであった。轟音とともにその場にいた者すべての聴覚が失調した——ただひとり、直前のタイミングで自らの耳を塞いでいたマリエールを除いて。

 一瞬のうちに辺り一面が白煙に覆われ、視界のほとんどがホワイトアウトして消失する。どこからか法廷内へ投げ込まれた火薬仕込みの煙幕玉が炸裂したのだ。人質と繋がれた爆弾へ引火しないよう、煙幕玉は炸裂の威力を調整され、最適な位置へ投げ込まれている。

 一体何が起こったのか。マリエールが単身裁判所内へ突入し敵の注意を引いている間に、リサとユスティーナが正規軍の残党兵を集めて建物を包囲し、突入を敢行したのだ。敵の注意がマリエールだけに向くよう会話を引き延ばした上で、頃合いを見計らったリサたちが、兵士たちとともに占拠された法廷内へ壁を破壊して突入する——どんな悪辣な手を使ってくるかわからない〈エース〉が相手であればこそ、マリエールは慎重を期した奇襲作戦の段取り(オペレーション)を立て、王立裁判所の奪還へ臨んでいた。

 当のマリエールの判断は素早かった。後ろ手に構えた剣を手に、一直線に駈けたのだ。目的は——〈キング〉の右手に握られた起爆装置だ。あのボタンが押されるよりも早く起爆装置を叩き落とさねば、ここにいる者は全員吹き飛ばされる。

 一瞬だけ、〈キング〉は虚を突かれたような表情で固まっていた。だがその一瞬が明暗を分けた。右手の起爆装置は蹴りの一撃で叩き落とされ、そして軸足を回転させた勢いもそのままに、マリエールは二の太刀とばかりに剣を振るった。

 

「このッ——!」

 

 〈キング〉が憤怒の形相で睨みをきかせる。果たして、マリエールの奇襲は起爆装置を奪うという目的の面では成功し、〈キング〉を仕留めるという目的の面では失敗した。敵の反応速度が剣の一撃を防いだからだ。しかし、それだけではない。思わずマリエールは舌打ちを洩らし、「畜生ッ!(Zut!)」と母国の言葉で悪態をついた。白煙の中〈キング〉の姿が、一瞬のうちに目の前から掻き消えていたからだ。

 

「リサ! ユスティーナ!」

 

 粉塵混じりの白煙に覆われた空間にあって、マリエールが叫ぶ。

 

「はい!」

「ここに!」

 

 すぐさま煙の向こう側から返事が聞こえた。

 

「離しなサイ! やめろ!」

「暴れると縄が喰い込んで苦しくなるわよ! 大人しくなさい!」

 

 〈セブン〉とリサの声が聞こえてくる。視界が制限されているため目視こそできないが、もみ合っている様子からすると、リサの手で〈セブン〉は捕縛をされているようであった。

 

「マリエールさん、あいつ、こんなものを……」

 

 煙を掻き分けながらユスティーナがやってきて、オイルライターじみたものを手渡した。蓋を開けると、そこには〈キング〉が押そうとしていたものと瓜二つのスイッチがあった。〈エース〉が持っていた予備の起爆装置だとユスティーナは言った。

 

「ははっ、参ったな……どうやら運が向いていなかったようだ……」

 

 兵士たちに取り押さえられた〈エース〉が言った。陰気な笑い声を立てながら。

 

「突入された瞬間、ぬかりなくボタンは押したさ。でもそいつ、壊れてたんだ……〈シックス〉の野郎……あとできっちりとシメてやらにゃ……」

 

 予備の起爆装置が壊れていなければ、果たしていまごろ自分たちはどうなっていたのか——マリエールは空恐ろしい思いを味わった。

 一方、やはり〈キング〉の姿は既に法廷内のどこにも見当たらず、マリエールは破壊された壁の跡から外の闇めがけて駈け出した。逃げた〈キング〉を追跡するために。

 

 ~~~

 

「そういうわけでゲームセットだ。諦めな」

 

 高笑いとともに〈ジャック〉が言った。両手に剣を携えたノフィに向けて。

 

「既に市場の井戸へ毒を放った。もう行動は終えてるんだよ。ちんたら夜明けを待ってたって仕方ないしな!」

 

 市場の一角に位置する屋根の上。〈ジャック〉は炎の照り返しで赤く染まった月をバックに、なおも高笑いを続けている。

 一方のノフィは手出しができない。バスタードソードを持つ〈ナイン〉の手で、カエデが人質に取られてしまったからだ。完全なる不覚であった。

 

「ガキンチョを人質にすりゃ、お前は何も手出しできない。いいんだぜ? あのガキを犠牲にすりゃ、いますぐにでもそこの〈ナイン〉をボコしに行ける。ま、その勇気がありゃ、って話だがな」

 

 どうする——ノフィは逡巡する。リンは中国拳法使いの〈エイト〉と階下の通りで交戦中だ。掩護に駆けつけられる状況ではない。しかもあの〈ナイン〉という女は相当の手練れだ。いまでこそ〈ナンバーズ〉の一員として〈ナイン〉なる暗号名を名乗ってはいるが、彼女の本名はトレイシー・ベッドフォード。かつて〈首切りトレイシー〉として悪名を轟かせた元盗賊団首領の女だ。行方をくらませたと聞いてはいたが、まさか〈ナンバーズ〉の一員になっていたとは。

 油断した——ノフィは唇を噛む思いで置かれた状況と向き合うしかなかった。〈ジャック〉は自らにノフィの注意を引きつけ、伏兵の〈ナイン〉は最適なタイミングでカエデを人質に取った。危険に対し鼻が利くマリエールがいればこのような不覚を取ることはなかっただろうが、しかし後手に回ってしまった状況は覆しようもない。

 後方へ引いて体勢を立て直した〈スリー〉と〈フォー〉の狙撃に託すべきかと思った瞬間、目の前の〈ナイン〉はおもむろにバスタードソードを振り上げた。

 

「あらあらぁ? そこにいるのは——」

 

 空気が切り裂かれる音と、凄まじいまでの轟音が響いた。振り下ろされたバスタードソードの刃とともに、衝撃波が通りの向こう側に位置する建物の屋根までをズタズタに引き裂き、破壊したのだ。とんでもない威力であった。

 

「——ふふふ、裏切り者の〈スリー〉と〈フォー〉じゃありませんかぁ」

 

 攻撃と同時に、瓦礫の飛び散る音と、二人分の叫び声がこだました。〈スリー〉と〈フォー〉の声であることはすぐにわかった。

 彼女たちの狙撃位置を気配だけで特定し、〈ナイン〉は奇襲攻撃を未然に防いだのである。動物的勘としかいいようのない、とんでもない危機回避能力であった。

 

「さてさて、これで二対一だ。どうする? 〈フォルセティ〉さんよぉ?」

 

 ニタニタとした笑いを浮かべ、〈ジャック〉が言った。ノフィが少しでも動こうとすれば、〈ナイン〉は躊躇なくカエデの首をかき切るだろう。〈首切りトレイシー〉は子ども相手とて容赦をするような手合いでは決してない。盗賊団時代、彼女がどれほどの屍の山を築き上げてきたのかを考えれば、自ずとわかることだった。

 

「私、子どもを殺すのは久しぶりなんですよぉ。だからぁ、こうやってちょっと刃を当てたつもりでもぉ、勢い余って頸動脈を切っちゃう……なんてことも、あるかもしれないわねぇ」

 

 あくまで柔和な笑みを浮かべながら、〈ナイン〉はカエデの首に刃をあてがっている。「助けて……」と言うカエデの弱々しい声音が耳朶を打った。

 

「そんじゃま、そこで身動きできない間に、大人しく殺(バラ)されとこっか」

「——させると思う?」

 

 唐突に声が聞こえた。その声の主に思い至るや、ノフィは目を丸くすることしかできなかった。なぜ、どうして、そんな問いが矢継ぎ早に脳裡をよぎる。ここにいるはずのない者の声が聞こえたのだから、当然の疑問であった。

 

「——え?」

 

 〈ナイン〉が呆けたような声を発した。同時に幾重もの光跡がきらめき、〈ナイン〉は血飛沫を迸らせながらその場へ前のめりに倒れ伏す。何が起きたのか、ノフィでさえ視認する間もない出来事であった。

 

「お前……生きてたのか」

 

 警戒心もあらわに〈ジャック〉が言う。

 

「可愛い娘の危機ですもの。ちょっとくらい無理させて貰っても、バチは当たらないわよね?」

 

 炎の照り返しで赤く染まった月をバックに、〈檮杌(とうこつ)〉〈窮奇(きゅうき)〉〈饕餮(とうてつ)〉〈渾沌(こんとん)〉——四本の刀を腰に刷(は)いた、深紅の和服の女が立っている。王立メイド協会名誉会長、モミジの姿に相違なかった。

 

「さてさて〈ジャック〉ちゃん。お遊びは終わり。そろそろお遊戯の時間も幕引きといきましょうか」

 

 ~~~

 

 倒壊するビッグ・ベンの瓦礫からニコルと〈ツー〉を庇いながら、ナナが考えたのは「ルルとマージョリー、クリスたちは無事か」ということだった。

 積み重なった巨大建築物の残骸から立ち上る炎や煙。霧のように立ち籠める粉塵。そこかしこから聞こえる市民や兵士たちの悲鳴や怒号。爆発の凄まじさを物語るがごとく、そこがビッグ・ベンの巨塔があった地点だということを、眼の前の光景から思い起こすのは、もはや難しいといわざるを得なかった。

 

「ルルさん! マージョリーさん! クリスさん!」

 

 声の限りナナは叫んだ。だが返事は聞こえない。まさか——という嫌な予感が胸中を瞬く間に支配した。この惨状にあって塔の中にいた者たちが無事であるとは到底思えず、しかし希望は捨てたくないという思いが混じり合い、ナナはしばしその場に立ち尽くした。

 一方、ナナの傍らで膝をついた〈ツー〉は張り裂けんばかりの声音で叫んでいだ。「〈ジョーカー〉さん! 〈ジョーカー〉さん——!」と。

 カラスのフリードリヒが収められた鳥籠をぎゅっと抱き締めながら、目に涙を浮かべ、「そんな……」と膝を突く幼い〈ツー〉の姿は、これ以上ないほどに痛ましい。

 

「そんなのってない……そんなのってないよ……」

 

 〈ツー〉は震える声音で涙をこぼした。

 

「道半ばでひとりで勝手に逝くなんて……そんなの、そんなのあんまりだよ……」

 

 悲痛な声音が、瓦礫で埋め尽くされた破壊の跡へこだする。そのときであった。

 

「——誰が先に逝ったって?」

 

 地面に積み上がった大小様々な破片の中から傷だらけの腕が一本這い出し、手近な瓦礫をむんずと掴んだ。

 

「この程度で死ぬほどヤワじゃない。見くびってくれるなよ……」

 

 煤と傷にまみれた女が、瓦礫の隙間から這い出し、悠然とした動作で立ち上がった。黒衣のメイド服の女であった。

 夜空の赤い月を背負い、ぼろ切れ同然になった外套状の上着と、そして乱れた長い銀色の髪を熱風の中にたなびかせるその女の正体とは——無論のこと〈ジョーカー〉だ。

 

「〈ジョーカー〉さん……!」

 

 〈ツー〉は感に堪えないといった様子で、復活した自らの主の名を呼んだ。一方のナナはニコルと〈ツー〉の前に立ち、とんでもない圧力を放つ敵を前に、震える両脚を踏ん張りながら〈ジョーカー〉の赤い双眸を睨みつける。

 

「来るならこい……私が相手になってやる!」

「おやおや、ずいぶんと勇ましいお嬢さんだ……しかし、メイドの卵である君が、そんなに汚い言葉を使ってはいけないよ。モミジさんに見つかったら、大目玉を喰らってしまう」

 

 〈ジョーカー〉は口元に人差し指をあてがい、一転して柔和な微笑を浮かべた。氷の表情を崩さぬ普段の〈ジョーカー〉からは、想像もできない仕草だった。一体全体、いま目の前にいる女は〈ジョーカー〉の顔をしてこそいるが、しかし本当に〈ジョーカー〉なのか。

 

「さあ、モミジさんにお茶の用意をしなければならないよ。あのひとは茶の味にはうるさいのだ。湯の温度と抽出の度合いに気をつけて……教えた通りにすれば、すぐにできる」

「何を……言っているんですか……」

 

 ナナの声は上ずっている。純然たる恐怖からだ。目の前にいる者との意思疎通が図れないだけで、こうまで恐怖するものなのか。そうしたことを考えていると、〈ジョーカー〉は表情をにわかに変え、今度は呆けたような顔をして首を傾げた。

 

「あれ? 確か君は……あの盗賊に襲われた村にいた子だろう?」

「……!?」

 

 場違いなほどの穏やかな声と、発せられた言葉の内容に、ナナ今度こそ困惑した。「あの盗賊に襲われた村にいた子」とは一体、どういう意味なのか。〈ジョーカー〉はナナの過去を知っているのか——だが、なぜ?

 

「マーム=シャルロットは、君の怪我の具合をひどく心配していたよ。ははは、まさかこんなところで出会うとは……運命とは実に数奇なものだ」

 

 フフフフ……という薄ら笑いを浮かべ、突然、〈ジョーカー〉は右手の剣を真一文字に薙いだ。その瞬間、ナナは凄まじいまでの衝撃を覚え、遙か後方まで吹き飛ばされる。かろうじて受け身を取ることができたのは、〈里〉でのクリスによる特訓の賜物であった。

 

「目を覚ませ! 〈ジョーカー〉!」

 

 どこからか声が聞こえた。痛みに呻きつつ身を起こし、ナナは「〈テン〉の声だ」ということを知覚した。ビッグ・ベンが爆発により倒壊するその間際——ナナ自身の手で倒したはずであったが、まだ起き上がることができたとは。敵のタフネスさに、ナナは舌を巻かざるを得なかった。

 

「どうしちまったってんだ! ルル・ラ・シャルロットはまだ生きているぞ! 早くトドメを刺さなきゃ今度はあんたが——」

「うるさいなぁ」

 

 場違いなまでに気怠げな〈ジョーカー〉の声が響く。

 再び爆発が起きたのだと最初に思った。それほどまでに凄まじい衝撃をナナ自身が感じたからだ。必死で両脚を踏ん張らねば、いまにも吹き飛ばされそうになってしまうほどの風圧が、辺り一面の細かい瓦礫を吹き上がらせ、巻き込み、そして嵐のように舞い上がらせた。

 ニコルと〈ツー〉が悲鳴を上げる。同時にナナも風圧に耐えかね尻餅をついた。一方、遙か前方——積み上がったビッグ・ベンの破片で形成された丘の上では、衝撃波に呑まれた〈テン〉が、血飛沫とともに粉塵の向こう側へ吹き飛ばされていくのが視認できた。

 ナナの全力全開の〈奥義〉を受けてなお立ち上がった〈テン〉でさえ、〈ジョーカー〉の前では木っ端同然なのだと思うと、敵との戦力差に恐怖さえ抱かざるを得なかった。こんな相手と、ルル・ラ・シャルロットはたったひとりで渡り合っていたというのか——。

 

「さあ、これで私の邪魔をする者はいなくなった……出てこいルル・ラ・シャルロット……いまこそ決闘を再開させようじゃないか」

 

 そのとき、ナナは背後を振り返った。歩み寄る気配を感じたからだ。

 

「——ナナちゃん、立てる?」

 

 果たして、ナナの背後にはルル・ラ・シャルロットが立っていた。傷にまみれ、白を基調とした〈フォルセティ〉の装束を煤で黒々と汚しながら、しかし凜とした佇まいは微塵も揺らがず——ナナの背後で剣を携え、ルルは意志に満ちた瞳を真っ直ぐに〈ジョーカー〉へ向けている。

 

「ルルさん!」

 

 あまりにも神々しいルルの姿に見とれてしまう自分を、ナナ自身、抑えることができなかった。

 脳裡を巡るのは走馬燈のごとき過去の記憶だ。炎の巻かれる故郷の村で、かつて自らの命を救ってくれたメイドの姿。そして入学式の前日、傭兵団のならず者たちから救ってくれたルルの姿。

 いままさに、そうした強さと美しさと清らかさを体現するメイドとナナは、同じ戦場(いくさば)に立っている。

 もうナナは、強き者に守られるだけの存在ではない。自ら剣を取り、半人前ながらも、ひとりのメイドとしてともに戦う強さを有している。そのことを強く自覚し、ナナはルルの問いかけに決然と答えた。「はい、立てます!」と。

 

「マージョリーさんと、クリスさんは……」

「怪我はしているけれど、無事よ」

 

 ナナは思わず安堵の溜息を洩らした。そんなナナの反応を見たルルは頷き、敢然と告げる。

 

「さあ、ともに行きましょう。この戦を、いまここで終わらせるのです——」

 

 ~~~

 

 敵の剣捌きは、まるで舞踊のそれであった。爪先で地を蹴り、振るわれる刃は幾重もの美しい弧を描いた。バレリーナの乱舞もかくやという動きであった。

 照明の落ちた中央銀行のホールにあって、シエナもまた剣を抜き、そうした舞踊のごとき技を見せる〈クイーン〉と真っ向からぶつかり合った。

 

「素晴らしい!(ブラーヴォ!)」

 

 紙一重で攻撃をかわし続けるシエナを見て、〈クイーン〉が賞賛の声を上げた。美と狂気に取り憑かれたこの顔——シエナには見覚えがあった。

 〈クイーン〉。こいつはイタリア出身の元〈エスパティエ〉だ。本名はフランチェスカ・チェンチ。自らの美的感覚を何よりも重視し、戦場では敵兵の死体で奇怪な『オブジェ』を作っていたという自称〈アーティスト〉に相違ない。彼女が〈協会〉の追放処分を受け、〈エスパティエ〉の称号を剥奪されたのは、三年も前の話になる。

 とんでもなく強く、美しく、そして病質的かつ猟奇的な趣味を持った〈エスパティエ〉であったそうだ。

 あまりに強すぎるがゆえ、戦場のフランチェスカは単独の偵察任務を主に請け負っていたのだという。彼女の凄まじい行軍速度に、随伴するメイドがついていけないというのが理由だった。

 そんな誰の目も届かぬ前線にあって、フランチェスカは敵陣に単身夜襲をかけては兵士たちを皆殺しにし、そうして殺した者たちの死体を『特殊な食肉加工業者』に依頼し、自らのアトリエへ冷蔵可能な状態で運び込ませた。常人には理解不能な『作品』の材料として使うためだ。

 フランチェスカの殺人癖に勘づいた〈協会〉と〈監視委員会〉は、彼女のアトリエに踏み込むが、このとき室内に仕掛けられていたトラップにより〈協会〉側の査察要員が二名死亡し、〈監視委員会〉側の要員が五名死んだ。

 アトリエの倉庫からは、人体を素材とした世にもおぞましい彫刻や絵画、そして百人はくだらない人数分の死体が、『収納可能』かつ『冷蔵可能』な状態で発見された。〈協会〉はアトリエから姿を消したフランチェスカの行方を追ったが、その実、大量殺人犯を〈円卓(サーカス)〉の〈ハート〉が匿い、〈ナンバーズ〉の幹部として運用していたとは——そうしたことを考えつつ、シエナは〈クイーン〉の攻撃を紙一重で弾いた。

 

「なるほど、あんた強いな。腐っても元〈エスパティエ〉ってわけか……!」

「うふ、お褒めに与り光栄ですわ」

 

 そう言って〈クイーン〉は嗤う。直に剣を交えてわかった。〈クイーン〉の実力はかなりのものだ。スピードと手数に至ってはシエナよりもわずかに上をゆくほどであった。〈エスパティエ〉時代の逸話は、伊達ではない。

 

「アハハハハッ、遅い、遅い遅い遅い遅い遅いッ! その程度の『速さ』で王国最強を名乗るとは笑止ですわ!」

 

 暗闇を切り裂くひと筋の光跡となった刃が、シエナの頬を掠(かす)めるように舐め取った。回避動作がわずかに間に合わなかったのだ。単純な手数勝負にあって、シエナは徐々に押されつつあった。

 中空にわずかな鮮血が迸り、その幾粒かが〈クイーン〉の頬を赤く染めた。だが攻撃の手は緩まない。むしろスピードはより早く、攻撃の精度はより高くなってくる。目映いばかりの火花が散り、振るわれる刃の軌道は幾重もの閃光となって煌めいた。

 

「ねぇ、あなたの血の色、とても綺麗よ。その血で絵を描けばきっととんでもない傑作ができる——だからあなたの血、私に全部くださいな」

 

 目尻の垂れた双眸を猫のように細め、〈クイーン〉は嗤う。その間にも振るわれる剣のスピードと精度は一手ごとに上がってゆく。まだまだ本気の技はこんなものではないと告げるかのような、実に挑発じみた所作であった。

 

「血は命の源であり、命とはひとの美しさを形作る根源といえるもの。私はそうした命の源で『作品』を作り上げる……! 神に命の源を捧げることで、私は更に美しく、そして清らかになれるのです……!」

「まったく得体の知れない思想だな……理解不能だ」

 

 陶然と語る〈クイーン〉の物言いに、シエナは嫌悪もあらわに言い放った。しかし、その間にも〈クイーン〉の剣の速度と精度は上がり続ける。このままでは押されるばかりのジリ貧であった。

 だがシエナとて〈フォルセティ〉ではルルに次ぐ戦闘能力を持つ強者である。敵の斬撃を弾いていなし、懐へ飛び込んで襟を掴む動作は一瞬の出来事であった。

 

「——ッ!」

 

 声にならない叫びを〈クイーン〉が発する。それに構わず、シエナは日本の古式柔術の要領で当て身を喰らわせ、足払いを掛けながら敵の重心を崩しにかかった。「なら、これはどうだ——?」と不敵な笑みさえ浮かべながら。

 

「組手甲冑術だ。こういう〈汚い技〉を喰らった経験は、さすがにないだろ?」

 

 シエナに投げ払われた〈クイーン〉は、背中を石造りの床へしたたかに打ちつける。肺の中の空気を吐き出す音が「げふっ」という声となり、細い喉から絞り出された。

 

「お前は『美しく戦いすぎ』だ。本当の戦(いくさ)ってのはな、それこそ何でもありなんだよ。それがメイド道に反しているかどうかはさておきな」

 

 〈クイーン〉が剣を持つ腕をシエナは瞬時に極めにかかった。武器を奪う目的だ。「ぐっ!」という〈クイーン〉の激痛に耐える声がホール中に響く。関節の骨が軋む音が、空気を伝わって聞こえてくるような趣であった。

 

「強く賢く美しく、清らかに……そうしたメイド道を象徴する〈フォルセティ〉のあなたが……よもやそのようなことを口走るとは……失望いたしましたわ……!」

「わかってねぇな」

 

 溜息とともにシエナは告げる。

 

「メイド道はいわば騎士道みたいなもんだ。騎士同士の戦いならそういう理屈も通じるだろうが、しかしお前は違う。のべつまくなしに人を殺すあんたは、ただの獣だ。獣相手に、わざわざメイド道を持ち出す道理もないだろう?」

 

 腕を極めたまま、シエナは〈クイーン〉の鳩尾の上へ馬乗りになった。この姿勢にあって〈クイーン〉はまったく抵抗できない。美しく長い金色の髪を振り乱し、〈クイーン〉は殺意の籠もった形相でシエナを睨んだ。

 

「卑怯、者……!」

「メイド同士の戦いならな、アタシだってこんな汚い技は使わないさ——だがお前は例外だ。罪なき者を平気な顔で殺す獣を、アタシは決して容赦しない」

 

 シエナは暗がりの中、冷えた視線で〈クイーン〉のことを見下ろしている。

 

「姉貴!」

 

 〈クイーン〉の実妹——〈シックス〉の声がホール中に響いた。〈シックス〉はジュリアが押しとどめている最中だ。救援に駆けつけられる状態ではない。しかしそんな実妹の声を聞き、〈クイーン〉は嗤った。

 

「〈シックス〉、〈ファイブ〉——手はず通りに」

 

 その一言で、〈シックス〉と〈ファイブ〉が息を呑む様子が伝わってきた。

 

「ねぇ、シエナ・フィナンシェ」

 

 窮地に陥っていながら、やけに冷静な口調で〈クイーン〉が言った。

 

「あなた、やっぱりとても強いのね。無抵抗の相手を、その手に持った剣で滅多打ちにしようとしているのに……微塵も感情が揺らいでいない。あなたは私と同じ、蚊でも潰すかのような調子で人を殺せる手合いね」

「買いかぶりすぎだ。殺さずとも、お前を捕縛して官憲に突き出すための技ならいくらでもある。何せ、アタシはあんたとは違って外道じゃないからな」

 

 シエナは〈クイーン〉の腕を極める力を更に強めた。くぐもった叫び声が、〈クイーン〉の喉から絞り出される。

 

「ふふ、ふふふふふふっ……」

 

 〈クイーン〉が笑った。何が可笑しい、とシエナが問うと、ややあって返答があった。

 

「甘いわね、あなたって本当に甘い……」

 

 同時に、背後で〈シックス〉と交戦中のジュリアが鋭い声を発していた。「こいつら、爆弾を腹に巻いている!」と。

 

「あっはははははは、ははははははははははははは!」

 

 〈クイーン〉が突然哄笑を上げた。シエナが振り返ると、意を決した表情で上着の裾を開く〈シックス〉と〈ファイブ〉の姿が目に入った。いずれも軍服状のメイド服の上着に、幾重もの鎖で繋がれた爆薬を巻いている。この場で自爆をするつもりなのだ。

 

「姉貴を解放しろ。そして見逃せ。そうすれば、こいつは収めてやっても良い……」

 

 冷や汗を垂らす〈シックス〉が、強がりとも取れる笑みを浮かべていた。

「まずい」とシエナは逡巡する——そのとき、視界がいきなり白一色に塗りつぶされた。〈クイーン〉から注意を逸らした一瞬の隙を突かれてしまったのだ。

 目の前で何かが目映いばかりに炸裂していた。次いで、濛々と立ち籠める煙幕がシエナの周囲を瞬く間に覆う。煙玉の一撃を至近距離から喰らったのだ。

 

「あっははははははははははは! 〈エース〉のときと同じ手を喰うなんて、お馬鹿さん!」

 

 〈クイーン〉の哄笑が聞こえる。無論、そこに〈クイーン〉の姿は既になかった。同時にシエナは激しく咳き込んで血を吐いた。煙に毒が含まれていたのだと、すぐにわかった。

 

「エリザベート様! ジュリア! この場から離れろ……アタシのことは心配するな……!」

 

 苦しげに呻きながらシエナが叫んだ、そのときであった。

 

「——そんなこと、できるわけがないでしょう」

「一時退却を。この煙を吸うと、命に関わります」

 

 シエナはにわかに瞠目した。ジュリアとエリザベートの声が傍らから聞こえたからであった。彼女たちは毒の煙に巻かれるのにも構わず、シエナに自らの肩を貸して立ち上がった。

 

「何やってんだよ、お前の相手はこっちだろうが——!」

 

 背後から〈シックス〉の声が飛んでくる。彼女もまた、毒に巻かれるのにも構わず決死の覚悟でシエナたちめがけて突貫してきたのであった。

 

「シエナ、ジュリア! ここは私が——!」

 

 飛び出したエリザベートが〈シックス〉を押しとどめる。彼女の剣に阻まれ、〈シックス〉は舌打ちとともに後ろへ飛び退って距離を取った。と、そのときであった。

 

「ねぇ〈シックス〉。私の命令は『戦え』じゃくて『この場で死ね』。言うこと聞けない子は、私、嫌いよ……?」

 

 いつの間にか〈シックス〉の背後へ忍び寄っていた〈クイーン〉が、彼女の頬を慈しむように撫でていた。

 

「さて質問。〈ジョーカー〉からの命令は何だったかしら……?」

「中央銀行を占拠して、破壊すること……」

 

 〈クイーン〉が問い、怯えにも似た表情を見せながら〈シックス〉が答えた。

 

「〈フォルセティ〉の邪魔が入った場合は?」

「どんな手を使ってても、損害を与えること……」

 

 再び〈クイーン〉が問い、わずかに震えた声音で〈シックス〉が答えた。

 

「場合によっては?」

「相打ちでも、構わない……」

「はい、良くできました」

 

 実の妹の頭を、〈クイーン〉は出来の良い子を褒めるかのごとき調子で撫でてみせた。一方の〈シックス〉の表情は青ざめ、こわばっている。

 

「ったく、あんた弱いんだからさ、ちょっとは頭使いなさいよ。そこのシエナ・フィナンシェを倒すには、もはや刺し違えるしかないって……わかるでしょう?」

「姉貴……アタシは……!」

「つべこべ言わない」

 

 言いかけた〈シックス〉を〈クイーン〉は一言で黙らせる。それと同時に、〈クイーン〉は〈シックス〉の胴体を覆っていた爆弾に手を掛けた。ピンを抜き、起爆をするためである。

 

「駄目————ッ!!!」

 

 〈シックス〉の相棒である〈ファイブ〉の声が響いた。長身の彼女は〈クイーン〉に飛びかかり揉み合うが、しかし〈クイーン〉は既に爆弾のピンを抜き終えている。

 

「あっはははははは、死ね、〈フォルセティ〉ども!」

「畜生——!」

 

 シエナが言い、血を吐くのにも構わず駈け出した。〈シックス〉の懐めがけてだ。

 

「——させるかよ!」

 

 シエナの振るった剣が、幾重もの光跡と化して煌いた。同時に、〈シックス〉の胴体を覆っていた爆弾の鎖が断ち切られる。とんでもない神業であった。

 

「〈ファイブ〉!」

 

 敵であった者の名をシエナは呼ぶ。その声に応えるように、〈ファイブ〉は持ち前の怪力を活かして〈クイーン〉を持ち上げ、中空へ放った。

 

「〈ファイブ〉、なぜ——!」

 

 〈クイーン〉の声がこだまする。まさか土壇場で味方に裏切られるとは——そう言わんばかりの声音であった。

 

「喰らいやがれッ!」

「———————ッ!!!???」

 

 断ち切った鎖から溢れ出た一つ繋ぎの爆弾を引っ掴み、シエナはそれを中空の〈クイーン〉めがけて放り投げた。同時に、凄まじいまでの閃光が視界一杯に炸裂した。

 吹きつける熱風と衝撃波から、シエナは〈ファイブ〉と〈シックス〉を守るので精一杯だった。爆発とともにとんでもない量の破片が弾丸じみた速度で飛来し、辺りの床や調度品をズタズタに引き裂いて蹂躙したのだ。

 そればかりではない。炸裂した爆弾は、元よりこの中央銀行に仕掛けられていた爆弾さえも連鎖的に炸裂させ、ほとんど熱塊の渦と化した爆風の中、シエナは掩蔽物の陰で〈ファイブ〉と〈シックス〉を抱きかかえることしかできなかった。

 エリザベートと、そしてジュリアはどうなったのか——爆風が収まった頃、シエナは変わり果てた周囲の景観に目をこらした。中央銀行のホールだった場所は、ほとんど砲撃を受けたあとのような惨状を呈していた。

 

「エリザベート様! ジュリア! 無事なら——無事なら返事をしてくれ——!」

 

 シエナは叫んだ。すると、いくつもの破片が地面に転がり落ちる音が聞こえてきた。音のした方向に目をやれば、瓦礫の山と化した一角が崩れ落ち、その中から煤だらけになったジュリアが顔を出す様が視認できた。気絶したエリザベートを抱えるその姿に、崩れ落ちた天井から差し込む赤い月光が差し込んでいた。

 

「私なら、ここに。お嬢を守るのは、従者である私の務めですから」

 

 ~~~

 

 人気の絶えた駅のホームを、マリエールは敵の気配を頼りに駈けている。ウォータールー橋駅。普段であれば開業間もない蒸気機関車に乗るための乗客で溢れているはずのそこも、いまは閑散とし、虚ろな闇を晒している。

 にわかに霧が立ち籠めはじめ、視界こそ制限されつつあったが、〈キング〉の気配が近くにあることは明らかだった。王立裁判所からここまで逃走してきた彼女は、どこかで息を潜め、追ってくるマリエールを迎え撃つつもりのようだった。

 高さのあるホームから鉄路へ飛び降り、マリエールは霧に包まれた闇の奥へ目をこらす。巨大な客車の連なりの向こう側を、外套の裾をはためかせた人影がサッと通り過ぎる様子が視界に入った。マリエールは迷わずその影の行方を追った。

 

「——こっちだ」

 

 いつの間に死角へ回られたのか。頭上から声が降ってきた。瞬時にその場から飛び退り、砂利に満ちた地面を転がって距離を取る。受け身の姿勢から立ち上がると、マリエールがいた地点に鋭利な剣を携えた〈キング〉の姿が顕わになった。

 

「再戦といこう。ここでお前の息の根を止めてやる」

「観念なさい……あなたはもう、逃げられない」

 

 マリエールは〈キング〉を睨み据えた。

 

「それはどうかな。再び剣を交えれば、答えはわかる」

 

 闘気とでもいうべきオーラを発した〈キング〉は、その剣の切っ先を真っ直ぐにマリエールの喉元へ向けている。だがマリエールは動じなかった。

 

「見たところ、この駅があなたたちの再合流地点だったようね。でも残念。あなた以外、お仲間はここに誰もいないようだけれど」

「そのようだな……だが、私のなすべきことに変わりはない。お前を倒して、〈ジョーカー〉の到来をここで待つ」

 

 

 マリエールは正眼の構えで〈キング〉と真正面から相対した。彼我の距離は三メートル程度。もう何歩か踏み込めば、敵を必殺の間合いに捉える距離であった。

 

「確かに、〈XD(イクス・デー)〉を持っているのはあなただものね。ここで倒れるわけにはいかない、と」

 

 マリエールが告げると、〈キング〉が顔を不機嫌そうに歪めた。「なぜそれを知っている——」と。

 

「確証はない。ただの勘よ。ただし、確度は高い」

「……」

 

 〈キング〉は何も答えなかった。

 

「わからないときは逆から考えれば良い——私たちの師匠でもあるモミジの教え。あなた、〈ジョーカー〉の安否に相当気を揉んでいるでしょう?」

 

 〈キング〉はわずかに表情を変えたが、しかし傍目から見てそうと分かるほどの変化ではなかった。あくまで内心を悟らせるつもりはないようだった。

 

「あなたはなぜそこまで〈ジョーカー〉の身を案じているの? 答えは単純。ビッグ・ベンの〈ジョーカー〉が、ルルと刺し違えるつもりなのではないかと思っているから——違うかしら」

「……だったら何だと言うんだ」

「あなたは〈ジョーカー〉の側近よね? 〈王宮メイド〉の頃そうであったように。であればなおのこと、〈ジョーカー〉の思惑をすべて知っているはずのあなたが、なぜその生還を不安視しているのか。決定的な何かがあったと考えるのが自然だわ」

 

 〈キング〉はまたしても沈黙する。

 

「たとえばこんな仮説が成り立つとは思わない——? ロンドン要衝の破壊、つまり〈プラン2〉発動にあたって、大ドイツへの政治亡命に必要な〈XD(イクス・デー)〉を〈ジョーカー〉の手から直々に託された……なんてことになれば、〈ジョーカー〉は生きて戻るつもりがないのではと、側近のあなたは思うはずよね」

「何を証拠にそう言い切る」

「状況証拠でしかないけれど——あなた、なぜそこまで私から必死に逃げていたの? 捕まると拙(まず)いことがあるからに決まってるわよね。ここに来るまでの道中で私を本気で撒きにきたのが何よりの証左。〈XD(イクス・デー)〉を私たちに奪取されれば、〈ナンバーズ〉の〈プラン2〉は水泡に帰す」

「フンッ……戯れ言を。だがまぁ、及第点だ。お前の言うとおりさ。この通りな」

 

 〈キング〉は懐から分厚い革張りの写本、〈XD(イクス・デー)〉を取り出してみせた。マリエールへ見せつけるようにして。

 

「確かに、私は〈ジョーカー〉からこの〈XD(イクス・デー)〉の死守を命じられた。王国の悪徳が記されたこの書物がなければ、大ドイツとて我々〈ナンバーズ〉を受け容れてはくれないだろう。逆にいえば——この〈XD(イクス・デー)〉さえ奪えれば、お前たち〈フォルセティ〉の勝ちというわけだ」

 

 そうはさせないがな——言うと同時に、〈キング〉の姿が眼前から掻き消えた。否、掻き消えたのではない。とんでもない速度でマリエールの死角へ潜り込んでいたのであった。

 

「私にとって〈ジョーカー〉は『アルファにしてオメガ』だ。私の人生それ自体が、一から十に至るまで、彼女なしでは存在しえない」

「だからこそ、〈XD(イクス・デー)〉を守り、再合流地点のここで〈ジョーカー〉の帰還を待つ責務がある——そう言いたいわけね」

 

 マリエールは〈キング〉の剣を受け止めつつ応じた。一撃という一撃がとんでもなく重く、しかも素早く、正確だ。〈ジョーカー〉の側近を務めるに能(あた)う剣の腕は、王国最強のメイド集団、〈フォルセティ〉の一角をなすマリエールのそれに匹敵していた。

「ゆえに私は、ここでお前に斃(たお)されるわけにはいかんのだよ」

「なるほど……ますます逃がすわけにはいかなくなったわね……」

「欲しくば力づくで奪ってみせろ、〈XD(イクス・デー)〉を」

 

 幾重もの光跡と化した刃が脇腹をかすめ、大腿部を抉った。マリエールはその痛みに呻きつつも、ここで防戦に回ってはならないと両脚を踏ん張る。相手にペースを掴ませては、再び逃げられてしまうことにもなりかねない。

 

「この〈XD(イクス・デー)は——いまこの場で私と〈ジョーカー〉を結ぶ唯一の縁(よすが)だ。お前ごときに奪われてなどなるものか」

「あなた、〈ナンバーズ〉の話ではなくて〈ジョーカー〉の話ばかりするのね」

 

 〈キング〉の剣に押されつつも、マリエールは不敵に笑う。敵の弱点を看破した——とでも言いたげな様子で。

 

「——ッ!」

 

 〈キング〉の反応が少し遅れた。それを好機とマリエールは一気に間合いを詰め、袈裟斬りの一撃をお見舞いする。が、すんでのところで回避された。まるで霧の中に浮かぶ幻影を相手取っているかのような手応えだった。しかし、マリエールに焦りはない。彼女はいたって冷静だった。

 

「さすがに、強いわね。〈ナンバーズ〉の二番手は伊達じゃない」

「お前こそ。所詮参謀役と侮ってはいたが、さすが〈フォルセティ〉の一角をなすだけはある。認めよう、お前は私の脅威となりうる強者であると」

 

 〈キング〉が殺意に満ちた笑みを浮かべ、マリエールもそれに応えた。

 再び両者の間合いが縮まり、剣と剣がぶつかり合うたびに霧の中へ火花が散った。目にも止まらぬ速度で次々と迫る刃をマリエールは右に避け、左に避け、相手の死角へ回り込みつつ反撃する。だが、そのいずれもが避けられた。

 

「〈フォルセティ〉の二番手と〈ナンバーズ〉の二番手——言われてみれば、お互い似たもの同士と見ることもできるわね」

「その物言い、〈ジョーカー〉とルル・ラ・シャルロットを同列と見なすか? 戦いのさなかに冗談を言うものではないぞ」

「ふふっ、あなたって本当に〈ジョーカー〉のことが好きなのね」

 

 〈キング〉の顔が憤怒のそれに変じると同時に、マリエールは攻撃の初動を一瞬だけ遅らせた。敢えて敵の一撃を誘うためだ。しかし、にわかに冷静さを失った〈キング〉はそうしたマリエールの思惑に気づいていない。

 

「はい、捕まえた」

 

 わざと空けた懐へ〈キング〉の剣が滑り込んでくると、それを自らの剣で防ぎつつ、マリエールは間合いを詰めて腕の関節を取りにいった。同時に、姿勢を崩されたキングの身体が背後へ倒れ込むような軌道を描いて宙へ舞った。合気柔術における〈腕絡み投げ〉の技を喰らったからだ。

 

「組み打ちか……シエナ・フィナンシェに学んだか?」

 

 だが〈キング〉は巧みに受け身を取りつつ〈マリエール〉の腕絡みから逃れて立ち上がり、逆襲とばかりに反撃を見舞った。

 死角からの一撃を弾き、マリエールはステップを踏むように後方へ下がった。次いで上半身の動きのみで〈キング〉の追撃を避け切ると、背後にあった巨大な客車が衝撃波で真っ二つに裂ける轟音が轟いた。だがマリエールの心は揺らがない。ルルの剣は——ルル・ラ・シャルロットの剣は、こんなものではないからだ。あれと比べれば、この程度の攻撃を見切ることなど造作もない。

 

「戦いのさなかに冷静さを失うべからず、よ」

 

 挑発混じりにマリエールは言う。

 

「これでようやく確信した。あなた、〈ナンバーズ〉のことなんて本当はどうだって良いのね。なぜなら〈ジョーカー〉その人のみに忠誠を誓っているから——違うかしら」

 

 バラバラに砕け散った客車の残骸が散らばる中、再び両者は三メートルの間合いで相対していた。

 

「そうだな……」

 

 場違いなまでの苦笑を浮かべ、〈キング〉は告げる。

 

「……私はな、マリエール・ウィークエンド。はじめから〈ナンバーズ〉の存在などどうでも良かったのだ。〈ナンバーズ〉の首領の座に〈ジョーカー〉がいることが重要だった」

「〈王宮メイド〉時代の〈ジョーカー〉に心酔していたがゆえに、あなたは〈ジョーカー〉の後を追うようにして〈ナンバーズ〉へ加入した」

 

 〈キング〉の苦笑は次第に哄笑へと変じてゆく。すべてお笑いぐさだ、とでも言いたげな調子で。

 

「ハハハ……私はな、マリエール・ウィークエンド。〈ジョーカー〉の側にさえいられればそれでいいんだ。そのためならば、他の仲間がどうなろうか知ったことではないんだよ。だから私はお前を斃(たお)し、〈XD(イクス・デー)〉を手にここで〈ジョーカー〉の帰還を待つ。それだけだ」

「……」

 

 黙したマリエールを前に、〈キング〉は蕩々と語る。

 

「私の願いはひとつだけだ……かつての優しい〈ジョーカー〉に戻ってほしい。シャルル・ド・アントリューシュと名乗っていた頃の、優しい彼女に。それだけが、私のたったひとつの願いなんだ」

「だったら——」

 

 マリエールが最後まで言う前に、〈キング〉はまたしても剣を振るった。線路上の木造の貨車が、放たれた衝撃波で粉々に割れ砕けた。右後方へ飛んで避けるが、しかし飛散した破片のいくつかをまともに浴び、マリエールは呻いた。

 

「私は〈ジョーカー〉に仕える者。同時に、私は彼女を真に愛する者だ。この愛の深さは、お前などには到底理解できんだろう」

「理解はできるけれど共感はできないわね。他の誰かに依存しきった人生だなんて、私はまっぴら御免だわ」

 

 今度はマリエールが反撃に回る番だった。

 

「その関係に希望はあるの? お互い沈みゆく未来しか見えない関係性は、きっとあなたの身を滅ぼすわ」

「〈ジョーカー〉と一緒なら、私は地獄の底でさえつき従う……!」

「何があなたをそうさせるの」

「愛だ。愛以外に私をそうさせるに足る何があるというのだ」

 

 マリエールの剣を受け、いくつもの火花を散らしながら、〈キング〉は後退して体勢を立て直した。

 

「かつての〈ジョーカー〉は、優しく、気高く、そして真っ直ぐな人間だった……一体何が彼女をああまで変えた? 王国の汚い戦争が彼女を変えた。戦場に広がる闇が彼女を変えた。だから私は、闇の底に沈んだままの〈ジョーカー〉に寄り添ってやらねばならない」

「同情するわ……でも、あなたたちが王都でやった行為を、到底許すことはできない。どれだけの人たちが傷ついたと思っているの」

「〈ジョーカー〉をああまで追い込んだ王国の臣民たちだろう? どれだけ死のうが知ったことではないな」

「身勝手な理屈ね」

「お前自身の立場で考えろ……もしもルル・ラ・シャルロットが闇に堕ちたとき、お前ならどうする」

「想定する価値もない。そんなことはありえないわ」

「いいや、ありえるのだ。メイドが国家間の戦争の駒である以上、ルル・ラ・シャルロットがかつてのシャルル・ド・アントリューシュのようなことにならないと、いったい誰が保証できるというのだ」

「そうなったときは——」

 

 〈キング〉に押し返され、膝をつく。だがこれも、敵の攻撃をわざと誘い出すための行動だ。

 

「——私がルルを引っぱたいて正気に戻すわ!」

 

 打ち下ろされる剣を左に避け、左右の脚で〈キング〉の大腿部を巻き込んで姿勢を崩す。呆気に取られた表情で真後ろめがけ倒れ込む〈キング〉をよそに、マリエールは悲しげな顔を浮かべ、剣を喉元につきつけた。

 体重をかけた片膝を鳩尾に乗せ、武器を持った敵の腕を完全に制し、マリエールは〈キング〉を一瞬の動きで組み伏せていた。もはや勝負はついたも同然であった。

 

「〈キング〉——ステファニー・テレジア。〈フォルセティ〉の名のもとに、あなたを逮捕致します」

 

 ~~~

 

 コヴェント・ガーデンの一角が完全な瓦礫の山と化していた。何ごとかと野次馬のごとく集った市民たちに向け、通りの兵士たちが「井戸に毒が投げ込まれている、指示があるまで絶対に口にしないように」と大声でがなり立てていた。

 そうした一角に位置する家屋。その屋根の上にあって、膝をついたモミジは荒い息をつき、流れ出る血を抑えて呻いていた。激しく動いたがために、〈ジョーカー〉に裂かれた傷口を縫った跡が開いていたのだ。

 

「モミジさん!」

 

 ノフィの声が背後から聞こえる。〈渾沌(こんとん)〉の銘が付された刀を鞘に収め、モミジはついにその場で激しく咳き込んだ。口元を抑えた手のひらに、黒々とした血が滲んでいた。

 

「大丈夫ですか」

 

 傷口の程度をノフィは素早く確かめ、すぐさま衛生兵を呼ぶべく通りめがけて大きな声を張り上げる。モミジは少し遠くなりかける意識の中で、その声を聴覚に捉えていた。

 敵の〈ジャック〉と〈ナイン〉の生死は——わからない。救援に駆けつけたモミジが、とんでもない破壊をもたらしたためだ。建物がまるごと吹き飛び、通りには嵐のごとき破壊の痕跡が刻まれた。その間、モミジは妖刀たる〈渾沌(こんとん)〉をわずかに二、三度振るっただけに過ぎない。

 それらの破壊に巻き込まれ、いずこかへ消えた〈ジャック〉と〈ナイン〉を通りに集まった兵士たちが捜しているが、しかし行方は依然として知れない。瓦礫の下に埋もれたのかもしれないし、どこかへ逃げたのかもしれなかった。だが、コヴェント・ガーデンを包囲した官警や兵士たちから〈ジャック〉と〈ナイン〉を見つけたという報告は、上がっていない。

 どうあれ、モミジへの反撃がないということは、敵戦力として〈ジャック〉と〈ナイン〉は既に無力化されているのは間違いなかった。生死不明の状態であるにせよ、だ。

 一方リンと交戦していた〈エイト〉は、駆けつけた兵士たちの手で取り押さえられていた。負傷した〈スリー〉と〈フォー〉は、衛生兵たちの手で病院へと搬送されたが、命に別状はないとのことである。

 そうこう戦局が変化する中、コヴェント・ガーデンの奪還は完了したのだ。井戸に毒が投げ込まれたという一点を除き、〈ナンバーズ〉の排除自体は成功した。あとはつつがなく状況を引き継げば、この場におけるモミジたちや〈フォルセティ〉の役割も終わりを告げる。

 

「そんなことより、カエデちゃんは……」

 

 なおも痛みに呻きつつ、モミジが問うた。自らの傷など気にする素振りさえなく、必死な声音で。

 

「無事です。いま兵隊さんたちから怪我の手当てを受けています」

「そう、ならよかった……」

 

 安堵とともにモミジが言った、そのときであった。

 

「お母さん!」

 

 声が聞こえた。その声にはっとなって顔を上げると、目に涙を一杯に溜めたカエデの姿が、そこにはあった。

 

「お母さん……やだ、死んじゃやだよ……」

 

 ああ、こんなに大きくなっても、泣き虫なのは変わらないな——そんなことを思いながら、モミジは愛しの我が子を抱き締める。ふわっとした髪の毛の手触りと体温のぬくもりが、モミジの両腕一杯に広がっている。

 

「何言ってるの、馬鹿ね。お母さんは強いから、このくらいじゃ死なないわよ……」

「だって、こんなに血が出てるんだもん……」

 

 モミジはカエデの額へ、そっと優しく口づけをした。次いでカエデの髪飾りにモミジは触れる。

 

「このかんざし。まだ持っててくれてたんだ……嬉しいな……」

「お別れするとき、お母さんが渡してくれたものだもん……だから、ずっと大事にしていたよ……」

「ありがと。お母さん、あなたのこと大好きよ」

 

 そう告げるとともに、モミジの身体から急速に力が抜けていった。血を失いすぎていたからだ。

 

「衛生兵! はやく、モミジさんが危ない!」

 

 ノフィは声も限りにそう叫ぶ。救護の兵士たちが集まってくるさなか、モミジの身体は徐々に冷たくなっていった。

 

 ~~~

 

 もしも地獄というものがこの地上に顕現したのだとしたら、きっとこういう景色なのだろうとナナは思った。

 一面の瓦礫の山と化した風景の端々からは火の手が上がり、月と空は炎の照り返しで真っ赤に染まり、人びとの悲鳴が辺りから聞こえ、そして空中を舞う火の粉と粉塵の向こうでは、圧倒的な瘴気を纏う何者かが、死そのものといった黒い気配を放ちながら屹立している。

 魔王というものがもし実在したのだとしたら、きっと〈ジョーカー〉のような姿をしているに違いない。思わずそんなことを思ってしまう。

 

「良い夜だ。朝が来て、終わってしまうのが惜しいほどに……」

 

 官能さえ漂わせる〈ジョーカー〉の声が、熱を孕んだ風に乗って聞こえてくる。地上へ斜めに突き刺さったビッグ・ベンの大時計盤を背にして、黒衣の女——〈ジョーカー〉はぎらりと銀光りする剣を正眼に構えた。純然たる殺意とともに。

 

「ナナちゃん」

 

 ルルが告げた。厳かに、しかし、穏やかに。

 

「あと少しで夜が明ける。私たちの後ろの方角は?」

「東です」

 

 即答するナナに、ルルは小さな頷きを返した。

 

「ご名答——いい? 日の出の瞬間が、私たちにとって唯一の勝ち目よ。その瞬間に私が仕掛ける。ナナちゃんは〈ジョーカー〉の側面からタイミングをずらして攻撃を仕掛ける役目をお願い」

「わかりました」

「私との連携を徹底して。絶えず波状攻撃を展開すること。息が切れたとしても、心臓が破れたとしても、少しも休んでは駄目よ。詰めの甘さを、あの人は絶対に見逃さない」

「はい」

 

 そうこう言葉を交わすうちにも、〈ジョーカー〉の発する黒いオーラが膨れ上がる。一塊の呪いとでもいうべき瘴気を直に浴びてなお、しかしルルの真っ直ぐな瞳は揺らがなかった。

 

「それと、これが最も重要なこと……あの人を絶対に殺さずに生かして捕らえるわ。おこがましいかもしれないけれど、壊れてしまったあの人の心を、私は絶対に救いたい……」

「そのために私に出来ることがあるのだとしたら、光栄です……!」

 

 ルルとナナは、一瞬だけ視線を交わし合った。互いに命を預け合う者どうしの信頼感とともに。

 

「——さあ、来い!」

 

 赤い瞳孔を開かせて〈ジョーカー〉が叫んだ。それと同時に、ルルとナナの背後から目映いばかりの曙光が差す。長き夜が終わりを告げ、王都ロンドンに太陽の光が昇ったのだ。

 

「ナナちゃん、いま——!」

「はい!」

 

 ほんの一瞬だけ、〈ジョーカー〉が光の眩しさに目を細める。その機を逃さず、剣を手にルルは駈け、ナナも続いた。もう、守られるだけの存在ではない。今度はルルさんとともに戦うのだ——そんな想いを胸に秘めつつ。

 

「こんなことで隙を突いたつもりか! ルル・ラ・シャルロット!」

 

 凄絶なまでの声音を〈ジョーカー〉は発する。ルルと交えた幾重もの剣筋が、ひとつづきの青白い火花となって迸った。だがナナは怯まず、後退したルルと入れ替わるようにして〈ジョーカー〉の前に躍り出た。憧れのルルとともに戦うにあたり、もはや恐れなど、微塵もない。

 

「やぁああああああああああああああッ!!!」

 

 気勢とともにナナは中空へ跳び上がり、携えた剣を目一杯に振りかぶる。そして——。

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