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第20話

​「鼎談」

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 十四年前、日本からロンドンへ渡ってきたメイドがいる。若くして江戸幕府お抱えの〈御庭番〉を務める、美しく優秀なメイドであった。語学に堪能で、頭の回転がきわめて速く、剣の腕は幕府随一。彼女はファルテシア王国内で諜報活動を行う任務を担っていた。西欧の大国たるファルテシア王国の政治動静を、祖国につつがなく伝えるためだ。

 しかし、メイドは現地の男と恋に落ちてしまう。やがて二人の間には娘が生まれた。母となったメイドは、家族と静かに暮らしたいと願うようになる。スパイ稼業から足を洗おうと考えたのだ。だがスパイというのは「辞めたい」といって簡単に足抜けできる仕事ではない。そこでメイドは一計を案じ、任務に失敗し死亡したと祖国に偽の情報を流すことにした。メイドはとても優秀なスパイであったから、こうした工作はお手のものだ。

 メイドは家族との平穏な生活を手に入れた。しかし、その生活も長くは続かなかった。何者かの密告により、まだ生きていることが祖国の知るところとなったのだ。スパイ稼業は裏切りを決して許さない。祖国はメイドを処刑対象として認定し、ファルテシアへ刺客を送り込んでくるようになった。メイドとその家族に危険が及ぶようになったのだ。

 苦渋の決断が迫られつつあった。ほどなくして、メイドとその夫は決断した。迫りくる刺客から家族の身を守るため、それぞれ各地に散るよう手配したのだ。夫妻にとってその決断とはすなわち、愛する我が子との今生の別れを意味していた。

 工作はファルテシア王国政府支援のもと行われた。政府にとってメイドは幕府の内情を知り尽くすきわめて重要な亡命者だ。メイドは王国政府の使者へ向けて、こう言ったものだった。

 

「お願いします。この子にだけは、決して累が及ばぬように……」

 

 巧妙に人の手を経由させ、愛する我が子を田舎の小さな孤児院に送り届けた。別れ際、メイドは自らが挿していた髪飾りを形見同然に我が子へ与えた。それ以来、メイドは家族と離ればなれになって、人里離れた山村でひっそりと暮らした。

 月日は流れた。あるとき、王国政府の使者が元・メイドのもとを訪れた。

 

「強いメイドを育てたい。次代において我々の〈盾〉として機能しうる、精強無比なメイドの軍団を編成する。そのためには、お前の力が必要だ」

 

 王国政府内の若きエリートたちは、冷戦関係にある東欧陣営——大ドイツをはじめとした東側諸国家と繰り広げられる覇権争いが、今後ますます熾烈さを増すだろうことを予期していた。ゆえに、強いメイドの育成は急務であった。選ばれし精鋭たる〈エスパティエ〉と、それに準ずる強い〈コミュニア〉の数を増やさねばならないのだ。メイドのもとを訪れた王国政府の使者は比較的年かさの役人であったが、そうした若きエリートたちの想いを代弁するかのごとく、熱の籠もった調子で説得を試みたものだった。

 使者の熱意に打たれた元・メイドは、教官として王国中から集められた腕利きのメイドたちを指導した。注文通り、国家の〈盾〉となりうるメイドを育てるべく、持てる知識を教え子たちにすべて授けた。巣立っていった教え子たちは〈王宮メイド〉として政府中枢に迎え入れられ、あらゆる局面で活躍を見せた。

 

「我々にとって、お前は救国の英雄だ。お前がいれば王国のメイドはもっと強くなるだろう。国家を支える〈柱〉として、お前の存在が必要なのだ。どうか、公職へ就いてはくれまいか」

 

 元・メイドは最上級のメイドであることを示す〈エスパティエ〉の徽章を授与され、元・メイドから再びメイドへ返り咲いた。〈王宮メイド〉のトップとして、また〈王立メイド協会〉の要職として公職にも迎え入れられた。とはいえ、やることは〈王宮メイド〉を育てていたときと変わらない。人里離れた山村で弟子たちを鍛え、強くする。メイドはそれを王国への恩返しとしてひたすらに続けた。かつて愛する我が子を守ってくれた王国政府の人びとに向けて出来る恩返しは、これしかない。そんなふうに思いながら。

 さまざまな弟子たちがメイドのもとで鍛えられた。いずれも王立ファルテシア学園のメイド学科をトップの成績で卒業したエリート中のエリートたちだ。その中でも、彼女にとってひときわ印象に残っている弟子が二人いる。

 シャルル・ド・アントリーシュ。

 そして、ルル・ラ・シャルロット。

 いずれも王立ファルテシア学園メイド学科を主席卒業した、フランス人の若者だった。フランス王国はファルテシア王国の主要同盟国であるから、メイドの弟子にはフランスから渡ってきたエリート留学生たちも沢山いた。そうしたエリート留学生たちは、しばしばファルテシア人のエリートたちを上回る成績を残した。歴代の弟子たちにあって、首席卒業の留学生という肩書きは珍しいものでも何でもない。

 しかし、シャルル・ド・アントリーシュとルル・ラ・シャルロットだけは別格だった。まるで次元が違ったのだ。

 優秀なエリート留学生という表現すら、この二人には生易しかった。メイドとして最初からあまりに完成されていたのだ。「まるで育て甲斐がない」と師であるメイドは思ったほどであった。やることなすことにミスがなく、教える前からすべてのことができるのだから、育て甲斐も何もあったものではなかった。

 弟子の腕をはかるための立ち合いで彼女が引き分けたのは、後にも先にもこの二人だけだ。

 特にシャルル・ド・アントリーシュとは師と弟子の間柄でありつつも、上官と部下として幾度も任務をともにした。主な任務は大ドイツを相手にした諜報戦だ。メイドは特に優秀な弟子たちを集めて結成した部隊を率い、数々の激戦を戦い抜いた。そうした部下たちの中でも、シャルル・ド・アントリーシュの働きぶりは際立っていた。彼女はメイドの右腕として揺るがぬ地位を確立していた。

 シャルル・ド・アントリーシュはファルテシア学園卒業生の中でも歴代トップの天才という触れ込みだった。何をやらせても最優秀の成績をおさめたのだという。とりわけ戦闘能力に関しては突出したものを有していた。学生時代においては入学時より、上級生はおろか講義を担当していた〈コミュニア〉の教師ですら戦闘訓練で圧倒していたほどであった。卒業後すぐに〈エスパティエ〉の位が授与されたという逸話も、なるほど頷ける話ではある。

 祖国やファルテシア王国に強い忠義を誓う模範生というのが、メイドにとって、シャルル・ド・アントリーシュの偽らざる印象だ。とても真っ直ぐな人柄で、直情家としての一面もあった。その性格がゆえであろうか、彼女とメイドは幾度も任務をともにするうち、次第に意見が食い違うようになっていった。

 

「なぜ見逃すのですか! こんなことでは……失った仲間たちへの申し訳が立たない……!」

 

 仲間の仇である工作員を大ドイツ領内で追い詰めたときのことだった。ファルテシア王国政府の上層部から突如発令された作戦中止命令に、シャルル・ド・アントリーシュは猛反発した。だが指揮官を務めるメイドは、部下の反駁(はんばく)を聞き入れることなどできなかった。ここは敵国領内だ。王国政府からの支援なしに作戦を続行すれば、部下たちを危険に晒す可能性が高かった。取れる選択肢は、退却以外にありえない。

 

「私は死んだ、戦死したと、司令部にはお伝えください。ともに戦えて……光栄でした」

 

 それが最後に聞いたシャルル・ド・アントリーシュの言葉だった。彼女は〈エスパティエ〉の徽章すら捨て、単独で部隊を離反した。その後、任務で標的としていた工作員が何者かに暗殺されたとの情報がメイドのもとへ入ってきた。シャルル・ド・アントリーシュがやったのだと誰もが思った。彼女は〈王宮メイド〉という立場から一転し、ファルテシア王国軍に行方を追われるお尋ね者となったのであった。

 以来、メイドはシャルル・ド・アントリーシュの姿を見ていない。いま、このときまでは——。

 

「〈ジョーカー〉。素敵な名ね。私たちの〈切り札〉だったあなたにはぴったり。もっとも、道化師なんかには見えないけれど」

「嫌味を言いにきたのか?」

 

 かつての弟子——〈ジョーカー〉ことシャルル・ド・アントリーシュの姿を、〈合議の間〉にあって、モミジは真っ直ぐに見据えている。一方、〈ジョーカー〉ことシャルル・ド・アントリーシュは片眉を吊り上げ、かつての師であり上官のモミジを、道端の雑草でも見下ろすかのような視線で見つめ返したものだった。精巧な人形を思わせる整った目鼻立ち、特徴的なショートミディアムの白髪に、燃えるように真っ赤な瞳……それらは確かにかつての弟子の面影をとどめている。だが気配がまるで別物だ。中身の魂が入れ替わってしまった、といっても通用するほどの変わりようだとモミジは思った。

 

「……少し席を外してくれ。それと、そいつらも一緒に連れて行け」

 

 〈ジョーカー〉は〈キング〉〈クイーン〉〈ジャック〉に命じ、〈スペード〉〈クローバー〉〈ダイヤ〉ら〈円卓(サーカス)〉の三人を連行するよう指示している。冷や汗をかき続ける〈円卓(サーカス)の三人が、それぞれ縄で縛られ〈合議の間〉の外へ連れ出されていった。

 馬鹿でかい円卓が鎮座する大広間には、〈ジョーカー〉と〈ハート〉、そしてモミジだけが残された。外からは蜂起した兵士たちの声と、騒乱に便乗した市民たちの声が聞こえてくる。何かが燃やされているのか、窓の外には夜闇に立ち上る煙さえ見える次第であった。

 

「まさかこんなかたちで、あなたが帰還を果たすなんてね……」

 

 円卓の椅子のひとつに腰掛け、モミジが言う。〈ジョーカー〉はモミジから視線を切らない。〈ハート〉は瞑目したままパイプ煙草をくゆらせ続ける。

 

「いまさら何をしにきた? 既に王手は打ち終えている。お前たちにできることは、もはやない」

「あらあら~? しばらく会わないうちにワイルドな口調になっちゃって。ひょっとしてグレちゃった?」

 

 〈ジョーカー〉は凄絶なまでの視線でモミジを睨む。だが、挑発の言葉には飛びつかない。心理戦を仕掛けられていることがわかっているからであった。

 

「ま、そんな話は置いていて。旧交を温めにきたわけじゃないし」

 

 答え合わせがしたい、とモミジは言った。〈ジョーカー〉の射貫くような視線を受けてなお、その態度は実に飄々(ひょうひょう)としたものだ。

 

「打ち終えた王手というのは、それのことかしら」

 

 卓上に置かれた革張りの写本を見て、モミジは告げる。

 

「〈XD(イクス・デー)〉。王国の悪徳が記されし秘密文書」

 

 モミジの言葉に、〈ハート〉は「フン」と鼻を鳴らし応じる。

 

「口さがない者はお前のことを〈協会の女狐〉と言う。言い得て妙だな。どこまで調べがついている」

「あなたもあなたで、随分と老害らしくなったじゃない。私を〈協会〉に誘ったときは、もっとイケてる不良中年みたいな感じだったのになぁ」

「十余年という歳月はひとをいかようにも変節させうる。お前とて例外ではない、モミジよ。幕府から派遣されてきたばかりのお前は、世間知らずの生娘といった風情だったな。とてもひとを化かすような女狐には見えなかった」

「言えてる。お互い歳は取りたくないものね」

 

 〈ハート〉が言い返すと、モミジは皮肉げな笑みで応えた。

 

「どこまで調べがついているか、ですって? 質問の答えは『あらかた、しかし、すべてではない』よ。だからこうして答え合わせをしに危険を冒してでも敵の懐へやってきた」

「剛胆なところは昔と何も変わらんな。お前が真実に近づいたところで、娘の件がある。そう簡単に手出しはできまいと思っていた。こちらの誤算だ」

「〈協会の女狐〉を見くびらないで貰えるかしら? 〈フォルセティ〉のそばにあの子をつけさせたのは、カエデへ手を出させないため。仮ライセンス試験のときみたいにね」

「なるほど、そこまでは調べがついているというわけか」

「クリスちゃんの部隊を使ってカエデの身柄を狙った理由は単純にして明白。クーデターの下準備のためよね。母親である私の動きをカエデの身柄ひとつで脅して封じることさえできれば、〈協会〉から下手な横槍を入れられなくて済むもの」

 

 よかろう、と〈ハート〉は言った。先ほどのモミジと同じく、皮肉げな笑みで応じる。

 モミジの言葉に直接応えないところは、さすがの老獪さというべきだろうか。

 

「確かにお前が言った通りその本の正体は〈XD(イクス・デー)〉だ。しかし写本ではない。正真正銘、本物の原本だ」

「ファルテシア王国の戦争犯罪——その証拠を記した資料の原本、ね。大ドイツ政府の最重要機密文書だわ」

 

 卓上に置かれた革張りの本——〈XD(イクス・デー)〉の正体をモミジはこともなげに当ててみせる。

 

「そうだな。お前はこの本の存在について知っている。何せ〈XD(イクス・デー)〉奪取を目論む作戦へ従事していた過去があるのだから」

「作戦自体は未達。あのときは司令部の命令で作戦目標自体が〈XD(イクス・デー)〉の奪取から工作員の暗殺に変更されて、あげく作戦中止の判断が下された」

 

 あなたが部隊を抜けたのも、そのときの話だったわね、とモミジは言う。〈ジョーカー〉は瞬きすらせず、ただモミジの目を見つめるだけだ。両者の間には、目には見えぬ張り詰めた糸のような緊張感が漂っている。

 

「どうやってその本を?」

「ベルリンの中央銀行にある金庫から奪取させた。〈ジョーカー〉たち〈ナンバーズ〉に命じてな」

 

 モミジは口笛を吹いた。まるで怪盗団ね、と。その間、〈ジョーカー〉は一言も発しない。

 

「こちらからも聞こう。お前はどこまでわかっている」

「そうねぇ……」

 

 顎に指を当て、モミジは考えるそぶりを見せる。

 

「違和感に勘づいたのはかなり前。〈協会〉の情報網に、正体不明の部隊の活動が引っ掛かった。軍情報部ですら感知していない謎の部隊。ヨーロッパ各国に広がる大ドイツのスパイ網を、そいつらが叩いて潰している、ってね」

 

 〈ハート〉も〈ジョーカー〉も応えない。

 

「そいつらのやり口はいつも同じ。常に少人数で行動して、予兆もなく敵を襲い、現場に不自然なほど痕跡を残さない。それを聞いた瞬間思ったの。かつての自分たちとまったく同じやり口だ、って。シャルルがやったってすぐにわかった。教えたことを全部忠実になぞられたら、嫌でもわかる」

「そのときからお前は〈ナンバーズ〉の存在に勘づいた」

「ええ。政府中枢のごく一部の要人にしか存在を知らされていない秘密部隊が、東西ヨーロッパの地下社会で動いているって確信した。地下に潜って、誰にも見つかることなく、闇に紛れ大ドイツのスパイ網を叩けるスキルを持った要員。同時に、敵の捕虜へ落ちた際にいつでも斬り捨てられる程度の要員。部隊を編成するにあたっての要員の調達先は、当然限られる。そうね。既に『死んだ』ってことになったメイドなんか、うってつけだと思ったわ」

 

 〈ジョーカー〉の視線がより一層鋭くなる。代わりに応じたのはやはり〈ハート〉だ。

 

「お前の推察通り、〈ナンバーズ〉は死者たちの部隊だ。既に死んだも同然の者を十四人集め、私は秘密部隊を結成した。国王陛下の監視の目を逃れ、秘密裏に作戦行動を遂行可能な部隊の存在が必要だった……いかなる監視の目からもかいくぐることができる、〈透明な者〉たちからなる最強の部隊だ」

「〈ナンバーズ〉を結成した理由は、いつからか国王陛下が大ドイツのスパイ網に対する破壊工作を認可しなくなったから……そうよね〈ハート〉」

「思わせぶりな言い方をするな、モミジよ。はっきり言ったらどうだ。〈ジョーカー〉の離反を招いたのは、ベルリンでお前が指揮していた作戦に国王陛下が横槍を入れたから。すべてはそこからはじまった、と」

「そんな不敬なこと、言えやしないわ」

 

 モミジは嗤う。女狐の笑みだ。

 

「なるほど。〈ナンバーズ〉は国王陛下の認可を経ない作戦を、ここ数年の間、ヨーロッパの地下社会で遂行していたってわけね」

「お前たち〈協会〉に〈ナンバーズ〉の存在が気取られているのは知っていた。だが、私自身は何の心配もしていなかった。〈ジョーカー〉率いる部隊が、不覚を取ることなどありえないからだ」

「師匠冥利につきるってものだわ。育てた弟子をそこまで褒めて貰えるなんて」

 

 おどけたような調子でモミジは言う。〈ジョーカー〉の視線は、もはや憎悪を通り越して純然たる殺意さえ籠められている。だがモミジは意に介さず、〈ハート〉に向けた言葉を継ぐ。

 

「〈ナンバーズ〉の存在は〈協会〉にとって紛れもない脅威だった。何せ痕跡を残さないから、追跡は困難を極めた」

「私の部隊をそこまで買っていてくれたとは、光栄だな」

「心にもないことを言わないで頂戴、〈ハート〉」

 

 呆れたといった具合でモミジは溜息をついた。仕方のないひと、とでも言わんばかりの調子だった。

 

「〈協会〉の利害ともぶつかるようになった〈ナンバーズ〉の活動を、私たち〈協会〉は追い続けた。そいつらがいつしか自分たちに直接牙を剥くのではないかと案じながら」

「だから〈フォルセティ〉を結成したのか。やがて訪れる〈ナンバーズ〉の脅威へ対抗するために」

 

 〈ハート〉は片眉を吊り上げる。表情の変化に乏しい皺深い顔が、わずかな驚きの表情へと変じていた。ぴんぽーん、とモミジは言う。

 

「もうひとつ。ウェインライト侯の暗殺未遂事件だけど、最初から大ドイツ工作員の犯行だとは思わなかったわ。前にも言ったけれど、〈シックス〉って子の『ルル・ラ・シャルロットはどうした? 怖じ気づいて逃げ出したか?』って言葉が決定打になった。ルルが侯爵の警護要員にいたことを知りうる人物が間違いなく介在しているって確信したの。あの事実を前もって知る立場にあった人物は限られる。自ずと暗殺未遂事件をでっち上げようとした容疑者は絞られた」

「そこからどうやって真相へと辿り着いた」

「わからないときは逆から考えればいいのよ。暗殺未遂でいちばん得をするのは誰かってね。それがあなた」

 

 モミジは〈ハート〉へ指先を向ける。

 

「あなたは本物の愛国者。同時に内心では反大ドイツの思想を持っている。敵国の軍縮要求を呑む国王陛下の外交路線なんて、到底容認できない人物の筆頭よ。そんなあなたが国王陛下の側近を務めているなんて、皮肉よね」

 

 すべてを見透かすような女狐の視線を受けつつ、〈ハート〉は何も応えない。老獪そのものを絵に描いた表情は、何ひとつ変わらなかった。

 

「侯爵の暗殺未遂は何の目的で行われたか……世論を軍縮反対へ仕向けることが目的でしょう? じゃあ世論の誘導はいったい何を引き起こしうるか……軍縮容認を掲げる国王陛下の生前退位よ。民衆の蜂起と軍隊の造反を扇動すれば、あとは最後の決定打さえあれば退位は充分に引き起こせる。その後は、傀儡(かいらい)として何者かを新しい王座に据えれば王座の転覆は完遂される。大ドイツへの強硬政策を掲げる王国政府の出来上がりだわ」

「ふむ、さすがだモミジ。及第点をくれてやろう」

 

 〈ハート〉はようやく口を開いた。

 

「お褒めに与り光栄ね」

「お前は『最後の決定打さえあれば退位は充分に引き起こせる』と言ったな……その最後の決定打となるのが、まさにそこにある〈XD(イクス・デー)〉だ」

「〈XD(イクス・デー)〉には一体何が記されているというの」

「国王陛下が犯した罪の記録だ」

「それはどんな罪だというの」

「たとえば——こんな話がある」

 

 そして〈ハート〉は語り出した。九年前、あるフランス南部の農村で大ドイツのスパイたちが発見された。彼らはモンペリエ大学の学術調査団を名乗り各地の村々を転々とし、その過程でフランスへ派兵されていたファルテシア軍の展開状況を大ドイツ本国へ報告していた。当時のファルテシア王国政府の判断は迅速だった。曰く、農村はスパイたちの隠れ蓑に違いない。協力者が村内にいるはずだ。となれば村ごと焼き払ってしまうのが手っ取り早い、と。

 襲撃は計画的に実行された。国王は側近の持っていたルートを使い傭兵団へ金を払い、盗賊団に偽装させた上で略奪と虐殺の実行を命じたのだ。

 そんな虐殺を内々で阻止したのが、当時〈ハート〉が使役していた大陸派兵部隊——すなわちマーム=シャーロット率いる〈王宮メイド〉の騎兵隊であった。

 

「お前が新たに弟子として迎え入れた学園の生徒。確か名は……」

「ナナ・ミシェーレ」

 

 私が見出した弟子の名くらい覚えてもらわないと困るわね、とモミジは言う。

 

「九年前、確かに彼女の故郷は盗賊団に襲われた。それを阻止したのは、マーム=シャーロットの騎兵隊と、私が率いる隊からなる混成部隊」

「そうか、お前も〈ジョーカー〉も、あの騎兵団とともに行動していたのだったな。フン、これもひとつの因果というわけか……」

「ともかく、あの事件の裏には国王陛下がいたってわけね」

「スパイ狩りに乗じた戦争犯罪は枚挙に暇がない。陛下はそうした戦争犯罪をいくつも軍情報部に指示している。そして、その後が問題だった……大ドイツの諜報機関が戦争犯罪をネタに国王陛下を強請(ゆす)りはじめたのだ」

 

 今度はモミジが驚く番であった。衝撃的な事実であったからだ。

 

「他国領土内での戦争犯罪が明るみに出れば、味方陣営である西ヨーロッパ諸国からどんな要求を突きつけられるかわからない。それでは西ヨーロッパの盟主としての王国の地位が危うくなる。陛下はそう考え、大ドイツの意向、つまり軍縮要求に面従することにしたのだ」

「ちょっと待って……ってことは、陛下が掲げる大ドイツとの融和路線は、向こうの諜報機関による工作だったってこと?」

「国を守っているのはお前たち〈協会〉だけではない。我々も日々、そうした情報を集め、戦っている。忘れないことだ」

 

 〈ハート〉は粛々と告げる。

 

「私は陛下に繰り返し諫言したのだ。軍縮規約だけは呑んではならない。双方の妥協点を探るべく、大ドイツ政府と粘り強く交渉すべきだ、と。しかし陛下の耳には届かなかった。そればかりか、〈スペード〉〈クローバー〉〈ダイヤ〉の同意も得られない。なぜなら彼ら彼女らもまた、大ドイツに抱き込まれた裏切り者であるからだ」

「びっくり。国家の腐敗もここまでくるとドン引きね」

「私は絶望の淵に立たされた。お前の言うとおり、私は愛国者だからな。救国の道を模索するのは、至極当然の流れだった」

「往くべき道は王座の転覆しかないと思うようになった……そういうことね」

 

 珍しく、自嘲ともとれるような顔を〈ハート〉は浮かべる。

 

「計画達成の手段はいくらでもあった。私が最初に接近したのは軍情報部だ。彼らも陛下が大ドイツに弱みを握られていることを察知していた。我々はもはやクーデターでしか王国が生きのびる道はないという意見で合致した。王位継承権一位たる幼き王女を次期元首として担ぎ上げ、現国王を廃し、私が執政権を握るための計画が、段階的に実行へと移された」

「果たして剛胆なのはあなたと私、どっちかしら……私には、あなたの方がよほど剛胆なように思えるけれど」

「どうとでも言え」

「で、あなたの計画を実行に移すためには、陛下の戦争犯罪の証拠、つまり〈XD(イクス・デー)〉をどうにかする必要があった。それをばらされてしまっては王権を転覆したところで元も子もないものね。で、体(てい)良く使われたのが〈ナンバーズ〉」

 

 すべての合点がいったかのようにモミジは頷く。

 

「我々のもとに〈XD(イクス・デー)〉があれば、陛下は退位を呑まざるを得ないだろう。計画は完遂だ」

「その果てにあるのは大ドイツとの果てなき軍拡と戦乱の未来よ。あなたはそれでもいいというの?」

「軍縮により国家の弱体化を招き、西ヨーロッパの盟主の座から陥落するよりは、よほどましだ。そう言うお前にはより良い代案があるとでもいうのか?」

 

 〈ハート〉は問う。

 

「代案なんてあるわけないわ。むしろ、あなたたちの計画は、この状況下においてさほど悪い打ち手ではないとすら思えるほどよ」

「ほう、意外な答えだ」

「私、こう見えても実利を取る主義なの。女狐らしくね」

「えらく腹に据えかねているようだな。女狐という呼び名を」

「そうかしら? 女狐ってとってもセクシーな響きだと思うけれど」

 

 でも、とモミジは言った。その眼光が、女狐のそれから獲物を狙う猛禽類の類に変化する。

 

「このまま王権の転覆を座視しろと言われても、「はい」とは言えないのも確かよね」

「どうするかね。私を法廷へ立たせるかね。そのためには、ここにいる〈ジョーカー〉を倒さねばならないな。外にいる〈キング〉〈クイーン〉〈ジャック〉も倒さねばならない。たとえお前ほどのメイドであっても、四対一で勝てる相手ではないぞ」

「さて、どうかしら。物事はやってみなければわからない、って思わない?」

 

 場を沈黙が支配した。ただの沈黙ではない。著しい緊張感を孕んだ沈黙だ。

 

「ねぇシャルル、あなたはどうなの? そこの〈ハート〉の意のままに動いて、〈XD(イクス・デー)〉を差し出して、その果てにあなたが得られるものとは一体何なの?」

「答える義理はない」

 

 にべもなく〈ジョーカー〉は応えた。すべてを拒むかのような冷たい声音だ。

 

「シャルル、元上官としてひとつだけ忠告するわ。〈XD(イクス・デー)〉の見返りにあなたたち〈ナンバーズ〉が何を得られるかは知らないけれど、その本を〈ハート〉に渡しては駄目。クーデターの真相を知る者を、〈ハート〉はきっと始末しようとするはずよ。あなたたちは都合良く使われた道具として捨てられるの。それくらいわかるはずよね?」

「見苦しいな。無駄な足掻きはよせ、モミジ」

 

 〈ハート〉が言う。彼は〈ジョーカー〉に目配せし、「その本を寄越せ」と言外に告げる。しかし〈ジョーカー〉は〈ハート〉を見ようとさえしなかった。その代わりに彼女はモミジを見据え、こう告げた。

 

「相手の腹の内を探る術は心得ている。〈里〉でお前に叩き込まれたおかげでな」

「だったら——」

「こうするまでだ」

 

 〈ジョーカー〉はカッと目を見開く。同時に彼女の纏う気配——いや、殺気が膨れ上がった。

 

「……お前、我々に嘘をついたな」

 

 殺気を収めることなく〈ハート〉を睨み、〈ジョーカー〉が言う。その手には鋭く室内光を反射する抜き身の剣が握られている。その鋒(きっさき)は〈ハート〉の喉元わずか一センチの距離で、微動だにすることなく止められている。いつの間に剣を抜き払ったのか、モミジでさえ視認できぬほどの早業だった。円卓に深々と着座した状態のままの居合抜きである。まるで人間業とは思えなかった。

 

「何の話だ」

 

 剣を突きつけられてなお、〈ハート〉は表情ひとつ変えることなく〈ジョーカー〉に言った。見上げた胆力だとモミジは思った。老獪さもここまでくると感心の域に達するほどだ。平民出身でありながら、頭脳と弁舌と胆力だけで政権中枢まで上り詰めた男はやはり違う、とさえ思ったほどであった。まったく、本当に剛胆なのは果たしてどちらの方なのか。

 

「シャルル、やめなさい——剣を下ろして」

 

 モミジは腰に刷(は)いた四本の日本刀——そのうちの一振り、〈饕餮(とうてつ)〉の柄に手を掛ける。

 

「〈ハート〉、残念だ。お前の抱く気高い理想に、少しは共感もしていたというのに」

 

 〈ハート〉は何も応えない。〈饕餮(とうてつ)〉を抜くべきか、どうすべきか。モミジは極限の判断を迫られつつあった。このままでは〈ハート〉は〈ジョーカー〉の手にかかり殺される。

 

「だがお前は決定的に道を違えた。考えを誤ったのだ……我々〈ナンバーズ〉はお前の駒などでは決してない。盤上から掃いて捨てられるほど、我々の存在は安くはないぞ」

「血迷うな〈ジョーカー〉。王権転覆の暁には、お前たちを死者から生者へと蘇らせる……その約束を違えようなどと思ったことは一度としてない」

「残念だ。とても残念だよ〈ハート〉。お前となら良き戦争を戦えると思っていた……」

「剣を下ろせ。〈XD(イクス・デー)〉を渡すのだ、〈ジョーカー〉よ……」

 

 〈ハート〉はなおも表情を変えず〈ジョーカー〉に言う。同時にモミジは〈饕餮(とうてつ)〉を鞘から抜き放った。自らが着座していた椅子を踵で蹴り、〈ジョーカー〉めがけて巨大な円卓の上をたった三歩で走り抜ける。

 音速すら超える神速の居合抜きと、〈縮地〉と呼ばれる特殊な歩法——だがそれさえも〈ジョーカー〉には届かなかった。モミジの眼前で血煙が舞った。X字を描く斬撃が、目映いばかりの光の残像となって視界に映った。〈ジョーカー〉の振るった剣先で、〈ハート〉は一瞬のうちに心臓を切り裂かれてしまったのだ。

 

「シャルル!!!」

 

 神速の居合抜きvs光速の斬撃。モミジと〈ジョーカー〉が激突するや、凄まじい衝撃波とともに巨大な円卓が真っ二つに割れ砕けた。

 

「感謝します師よ——」

 

 かつての上官に対する口調を取り戻し、〈ジョーカー〉が言う。その赤い瞳孔は不気味なほどに開いている。

 

「——あなたが授けてくれた術によって、私はこの男が嘘つきであると見抜くことができたのです」

「目を覚ませなんてベタな台詞は、どうやら通じなさそうね——!」

 

 この女はもう、まともではない。まともでなく、更に強い者は実に厄介な手合いだとモミジは思う。

 背筋を冷たいものが走り抜けた。〈ハート〉を斬り捨てながらモミジによる神速の居合抜きを真正面からガードする。ほとんど曲芸じみた剣の腕といって差し支えなかった。かつての彼女とは比べものにならないほど強くなっていると、さすがのモミジも認める他ない次第であった。

 

「〈渾沌(こんとん)〉を抜け。〈饕餮(とうてつ)〉じゃ私は殺せない」

 

 至近距離での鍔(つば)迫り合い。荒げた息が互いの鼻面にかかる距離で、〈ジョーカー〉は嗤いながらそう言った。モミジは思わず舌打ちを返す。元弟子である〈ジョーカー〉は当然モミジの手の内を知り尽くしている。そうした相手と戦うのは、いくらモミジほどの剣客とはいえ、著しいハンデを背負って戦うのと変わりない。

 対してモミジは〈ジョーカー〉の剣筋をいまだ読み切れていない。昔の彼女とはまったく比べものにならないほど強くなっているからだ。

 

「さあ、抜け! はやく〈渾沌(こんとん)〉を抜いてみろ!」

 

 わずかにモミジを圧しながら〈ジョーカー〉が叫んだ。獣じみた吐息を間近で受け、〈渾沌(こんとん)〉を抜くべきかどうか、モミジはわずかに逡巡する。できれば奥の手たる刀は抜きたくなかった。

 モミジは四本の刀を使い分ける。いずれも著名な刀工の手による銘刀・妖刀の類だ。それぞれの刀には中国の四柱悪神の名にちなみ、〈檮杌(とうこつ)〉〈窮奇(きゅうき)〉〈饕餮(とうてつ)〉〈渾沌(こんとん)〉の銘が付与されている。これら四本の刀を敵の脅威度合いに合わせ使い分けるのだ。

 〈檮杌(とうこつ)〉は刃を潰した殺傷力のない刀である。これは格下の相手をあしらう際にしか使われない。〈窮奇(きゅうき)〉は腰高で反りが緩やかな刀で、これは並みの相手にしか使われない。〈饕餮(とうてつ)〉は刀長一メートル超の大太刀を磨上(すりあ)げて短くした「折れず曲がらず」の名刀であり、これはモミジが強者と認めた相手にしか使われない。

 そして〈渾沌(こんとん)〉。見た目は何の変哲もない赤鞘の日本刀であるが、その実体はいわゆるところの〈妖刀〉だ。とはいっても、超常的な曰くがついた刀というわけでは決してない。だが事実として、この刀で斬られた傷から流れた血は決して止まることがない。刃の切れ味が常軌を逸して余りあるがゆえである。したがって、〈渾沌(こんとん)〉はモミジにとって文字通り必殺の剣としてしか使われない。これを振るった相手は必ず死んでしまうからだ。

 シャルル・ド・アントリーシュ。殺したい相手では無論なかった。もはや別人と化し、まともではなくなってしまったとしても、彼女はモミジにとっていまも可愛い弟子に違いない。無慈悲に斬って捨てるなど、できるはずもない話であった。

 

「本当に、愚かなひと」

 

 〈渾沌(こんとん)〉を抜くそぶりを見せないモミジを見、あからさまな侮蔑の表情を浮かべた〈ジョーカー〉が言う。

 

「〈ジョーカー〉は取らせない——!」

 

 モミジは鍔迫り合いを解いて後ろに飛んだ。声の主は〈合議の間〉に突入してきた〈キング〉のものだ。モミジは〈キング〉の助太刀を避け、軽々とした身のこなしで着地する。これで二対一。

 モミジと合わせるようにして後ろへ退いた〈ジョーカー〉と入れ替わるようにして、〈キング〉が猛攻を仕掛けてくる。振るわれたその剣すべてを、モミジは驚異的な反応速度で捌ききった。第一線を退いてなお、王国最強の〈エスパティエ〉の技は健在であった。

 

「昔と変わらず本当にお強い。その剣捌き、感服いたします」

「それはどうも。ステフちゃん」

 

 かつてのあだ名で〈キング〉を呼ぶと、その表情がわずかに変わった。磨き上げられたサファイアを思わせる切れ長の青い目が、いまは混じりっけない純粋な怒りの色へ塗りつぶされている。美しく長いストレートの銀髪は振り乱され、荒ぶる白獅子がごときであった。

 

「その名でもう一度呼んだら、喉を掻き切って二度と喋れなくして差し上げます」

「あらあら、元上官への口の利き方がなってないわよ? 再教育が必要かしら」

「戯れ言を……!」

 

 幾度も剣を交えながらモミジが言う。余裕たっぷりの表情であった。体格差で優る長身の〈キング〉を相手に、一歩も退かない戦い振りだ。

 ステファニー・テレジア。〈キング〉の本名だ。かつての彼女は〈ジョーカー〉と同じく元〈王宮メイド〉であり、モミジの部隊に所属していた。脱走し行方をくらませたのは、もう何年前のことになるだろうか。彼女もまた、フランスから派遣されてきた優秀な留学生であった。

 

「〈キング〉、頭冷やせ。君ひとりじゃそいつに勝てない」

 

 またしても声。モミジの背後からそれは聞こえた。幼い声だ。

 

「殺(バラ)すなら一人より二人の方が効率的だろう?」

 

 〈ジャック〉の声であった。振り返るとナイフを手にした金髪碧眼の小柄な少女がすぐ後ろに取りついていた。いつの間に死角へ付かれたのか——まったく気配を感じ取れなかったことに、モミジは内心驚愕した。やはり〈ナンバーズ〉幹部クラス。相当に強い。これで三対一だ。

 

「さあやれ! 〈キング〉!」

 

 〈ジャック〉に後ろから羽交い締めにされ、モミジは動きを封じられる。同時に眼前の〈キング〉が踏み込みとともに一気に距離を詰めてくる。心臓を串刺しにするつもりなのだ。喉元にナイフをあてがわれ、身動きできないモミジはその一撃を回避する術などない——かと思われた。

 羽交い締めにされた格好のまま、モミジは唐突に大きく腰を落とした。虚を突くような動きで力の行き場所を失った〈ジャック〉は、バランスを崩して前のめりに倒れ込む。その勢いを利用して、モミジは〈ジャック〉の小柄な身体を中空めがけて背負い捨てた。見事な合気柔術の技前であった。

 

「マジかよ……!」

 

 〈キング〉と衝突する手前で受け身を取りつつ、〈ジャック〉が驚愕に目を見開く。行く手を遮られた〈キング〉はブレーキを踏まざるを得なかった。そのままのスピードで突進を続ければ、串刺しになるのはモミジではなく〈ジャック〉になるのは明らかであったからだ。

 

「マジか……おっぱいでけー……娘のガキんちょと大違いじゃん」

 

 〈ジャック〉は目をぱちくりさせながら、いましがたモミジを羽交い締めにしていたときの感触を確かめるかのように、両手を閉じたり開いたりしてみせた。

 

「あんたもうちの子と同じ年頃のガキんちょでしょうが。それに〈エスパティエ〉相手に組み技を狙うなんて十年早い。おっぱい膨らんでから出直してらっしゃい」

「——あらあら、お喋りしている暇などありませんよ?」

 

 新手の声がすぐ横から聞こえていた。〈饕餮(とうてつ)〉を再び構え直し、顔を振り向けると、長い金色の髪をたなびかせながら〈クイーン〉が間近にまで迫ってきていた。これで四対一。さすがにきつい。

 

「相変わらず実に美しい戦いぶりです。芸術的とさえ言っていい——!」

 

 振るわれた刃を受け流し、受け流し、受け流す。バレリーナの乱舞を思わせる〈クイーン〉のアクロバットな太刀筋は、きわめて読むのが難しい。だがモミジはそのすべてを捌ききった。すさまじい動体視力と反応速度だ。

 

「素晴らしいです!(ブラーヴォ!)」

 

 〈クイーン〉が驚嘆の声を上げた。

 

「ねぇねぇおばさま、教えてくださる? 歳を重ねてもそこまで強く美しくあり続ける秘訣とはいったい何なのですか? 特にメイドは美しきを尊ぶもの……かくいうこの私も元〈エスパティエ〉。美しきを尊ぶ者のひとりでございます」

 

 鍔(つば)迫り合いの距離にあって、目尻の垂れた二重の双眸を更に細め〈クイーン〉は笑みを浮かべる。美と狂気に取り憑かれたこの顔、知っているぞとモミジは思う。イタリア人の元〈エスパティエ〉だ。名は確か——フランチェスカ・チェンチ。突出した能力を持ちながら、任務や戦いの中で自身の美的感覚を何よりも重視視し、組織の規律に従わない者だった。戦場において敵兵の死体で奇怪な『オブジェ』を作っていたことから〈協会〉の追放処分を受けた、彼女はいわば殺人狂だ。

 

「この歳でおばさま呼ばわりはカチンとくるわね……あんたとはせいぜい十コかそこら年上なだけよ」

「これまでに何人殺したのですか?」

 

 突如真顔に戻った〈クイーン〉が問う。

 

「いったい何人殺せば、そのような美しさを保てるのですか?」

「それがあんたの宗教ってわけ? だいぶ頭イッてるね……ぶっちゃけ怖いわ」

 

 モミジは〈クイーン〉の眼を見てぞっとした。まともな者が直視できる瞳ではない。見る者を引きずり込む底なし沼のような目だとさえ思ったほどだ。

 

「無駄話はあとにしろ、〈クイーン〉」

 

 〈キング〉の声。更にそこへ〈ジャック〉さえも加勢する。〈ナンバーズ〉幹部三人によるめくるめく波状攻撃がモミジを襲う。とても〈饕餮(とうてつ)〉一本だけでは堪えきれそうもない。モミジは仕方なく空いた方の手で〈窮奇(きゅうき)〉を抜き、かつて〈紅目のクリス〉にそのすべてを授けた技、柳生心眼流直伝の二刀流を惜しみなく使う。件の流派は太刀と小太刀、太刀と鞘などの二刀を使った技が存在する。今回の場合は太刀と太刀だ。右手に〈饕餮(とうてつ)〉。左手に〈窮奇(きゅうき)〉。究極の殺傷力を誇る両手太刀の変形二刀流を使い、モミジは〈キング〉〈クイーン〉〈ジャック〉三人分の攻撃を怯むことなく捌き続ける。と、そのときであった。

 

「もういい、うんざりだ——」

 

 〈キング〉〈クイーン〉〈ジャック〉の狭間を縫うようにして、残像を纏った〈ジョーカー〉の姿が眼前に迫る。刹那の際、〈ジョーカー〉とモミジの視線が交錯する。〈ジョーカー〉の顔は、悲壮ともいえる深い哀しみに染まっていた。

 

「全力を出す気がないのなら——死ね」

 

 剣を構えた〈ジョーカー〉の手から必殺の一撃が振るわれた。きらめく光跡が真一文字になって輝いて見える。〈饕餮(とうてつ)〉の防御は——間に合わない。

 

「しまっ————ッ!!!」

 

 血煙が舞った。同時に、モミジは〈合議の間〉を遙か後方めがけて吹き飛んでいった。重い斬撃の衝撃を吸収しきれなかったのだ。壁を突き破り、隣室の大広間に飾られた壁面の絵画めがけて背中を思い切り打ちつける。「ガハッ!」と思わず声が出た。肺から一気に息が吐き出され、血で呼吸が詰まる苦痛を覚えると同時に、モミジは前のめりに床へと倒れ伏して動けなくなった。

 斬られた——? この私が——? なぜ——? どうして——?

 いくつもの疑問が遠くなりかける意識の中で明滅する。そして気づく。

 呼吸と呼吸の狭間を狙われたのだ。日本に伝わる合気柔術の奥義で、よく似たものが存在する。呼吸と呼吸の狭間とはすなわち、意識と意識の切れ間に他ならない。それを利用した、絶対に攻撃を防ぎきれない瞬間をピンポイントで狙い澄ました攻撃だ。

 狙ってできるようなものではもちろんない。技を磨くことで誰でも習得できるものでももちろんない。圧倒的な戦いの素質、天性、センス。そういったあれこれを有する者が、幾多の死線を潜り抜けた末に身に着けることが許される奥義中の奥義。それを自分は、真正面から喰らったのだ。

 あの短い立ち合いの時間で、しかも三人を相手にした乱戦で、常に動き回る自分を標的として——?

 呼吸のタイミングをコンマ秒以下の精度で読み切った——?

 ありえない。あんなものは人間業ではない。神業という表現すら当てはまらない。

 あれは悪魔に自らの魂を売った、人ならざる者しかなしえない芸当……そういった類のものに相違ない。

 バケモノだ。かつての弟子は、正真正銘の怪物となって我が前に再び現れた。

 モミジは切り裂かれた深紅の着物の狭間から止め処ない血を流し、呻き、畏怖し、震えながら、力を振り絞って苦痛に歪む顔を上げた。

 哀しみに顔を歪ませた〈ジョーカー〉が、倒れ伏したモミジを見下ろしていた。

 

「なぜ〈渾沌(こんとん)〉を抜かなかった。慈悲か、憐憫か、それとも愚弄か」

 

 モミジは荒い息をついたまま応えない。深手を負い、血が止まらないのだ。

 

「——答えろッ!!!」

 

 ごめんね、という声が聞こえた。かすれたような、か細い声だ。

 

「カエデちゃん……ごめんね……お母さん、ここで死んじゃうみたい……」

 

 息も絶え絶えに、生き別れの我が子の名を呼ぶ声であった。そこには王国最強の〈エスパティエ〉の名誉も、〈王立メイド協会〉名誉会長としての尊厳も何もない。ただひとりの母親としての悲痛なまでの何かしらの念が、そこにはあった。

 

「……お前は昔から甘かった。弟子には羅刹(らせつ)のように厳しいが、実戦では仲間の命を何よりも大事にする指揮官だった。そうした甘さが……私は本当に大嫌いだった」

 

 〈ジョーカー〉の声には、氷のような哀しみと、滾るような憎しみが同居している。とても複雑な声音だった。

 

「祖国を裏切り、愛に溺れ、子をなし、生んだのがお前の弱さだ。いまならわかる。お前は最初から牙の抜けた戦士だった。日の本最強であったはずのメイドが……何てざまだ」

 

 モミジは沈黙して応えない。出血量が多く、ついに気を失ってしまったのだ。

 

「……興が削がれた。殺すまでの価値は、お前にはない。私の望みを満たす戦士はお前ではなかったというわけだ」

 

 そして〈ジョーカー〉は部下たちに告げる。

 

「状況が変わった。これより我ら〈ナンバーズ〉は〈ハート〉の指揮下を離れ、独自に行動を開始する。すみやかに〈プラン2〉へ移行せよ——この王都を灰燼(かいじん)に帰すための行動を開始するのだ!」

 

 捨て置かれたままの〈XD(イクス・デー)〉を回収し、〈ハート〉の亡骸へ一瞥(いちべつ)をくれると、〈ジョーカー〉は部下たちとともに足早に〈合議の間〉をあとにした。あるいはこの満たされることのない渇望を満たしてくれるのは、ルル・ラ・シャルロットしかいないのか……そう小声で祈るように呟きながら。

 

 ~~~

 

 王都ロンドン西部。セント・ポール寺院より約五〇メートル地点の路地裏。

 騒乱のさなか、シエナ・フィナンシェは敵の尻尾を掴み、袋小路へと追い詰めていた。相手はウェインライト侯の暗殺未遂事件において大ドイツの工作員を名乗っていた二人組だ。〈ナンバーズ〉の〈ファイブ〉&〈シックス〉。フロスト“ザ・ミラー”シスターズの片割れに毒を喰わせた張本人たち。シエナにとっては、是が非でもリベンジしたい相手であった。

 

「よぉ悪ガキ諸君。こんな夜遅い時間にお散歩とは感心しねぇなぁ!」

 

 両拳を派手に打ち鳴らし、好戦的な笑みを浮かべたシエナが言う。その傍らにはジュリアとエリザベートの姿もある。三対二。しかも数的優位にある陣営には〈フォルセティ〉のシエナ・フィナンシェまでいるのだ。優勢なのはどちらか、劣勢なのはどちらか。火を見るより明らかだ。

 

「さてさて、そんな悪ガキ諸君には抜き打ちの持ち物検査といこうじゃん? 毒やら爆弾やらナイフやら、物騒なモン持ってるかもしんねぇからなぁ!」

「ペラペラうっせーぞ、デカパイ女! そんなにリベンジマッチがしてぇなら受けてやろうかぁ? 言っとくが〈フォルセティ〉相手だからってケツまくったりしねぇかんなぁ? 舐めて痛い目見んじゃねぇぞコラ。え?」

 

 こちらも好戦的な気配を漂わせた〈シックス〉が、ひどい隈に覆われた目を見開いてシエナに凄んだ。猫背で癖のあるぼさぼさの栗毛、不健康を絵に描いたような顔面。だがそんな見た目に反して〈シックス〉は生粋の喧嘩屋だ。もっとも、彼女の爆弾使いの才能と素手喧嘩(ステゴロ)好きの性格は、すさまじく取り合わせの悪い代物には違いなかったのだが、そんな細かいことを気にする性格ではもとよりない。彼女はシエナに売られた喧嘩を買う気満々であった。

 

「〈シックス〉、挑発に乗っちゃ駄目……〈ジョーカー〉が言ってた……敵と真正面からやり合うな、敵と遭遇したらやり過ごせ、って……」

「オウ、言ってたな。そんなこと」

 

 〈ファイブ〉の言葉に〈シックス〉が応じる。命令違反上等、といった含みのある返答だった。

 

「ここで〈フォルセティ〉とやり合うメリットは何もない……退却しよう……前みたいに……」

「お前や〈ジョーカー〉の姉御にはなくても、アタシにはあんだよ。あと売られた喧嘩を買わねぇのはポリシーに反する」

 

 枯れ枝のような体躯、そして巨木じみた超長身の〈ファイブ〉と、やや小柄で猫背の〈シックス〉が居並ぶ様子は、こういってよければ少しばかり滑稽だ。しかしこの二人は〈ナンバーズ〉筆頭の斬り込み隊。白兵戦の腕前は相当なものだ。機転も利き、だまし討ちを使うことにも躊躇いがない。王国最強の〈コミュニア〉の一角をなすフロスト“ザ・ミラー”シスターズの片割れを破った実績があるのだから、舐めてかかって良い相手では絶対にない。

 

「何だ? 二人してコソコソ作戦会議か? お前らと違ってこっちは逃げも隠れもするつもりはないぜ?」

「あ? んだとこの野郎。アタシらが腰抜けだと、そう言いてぇわけか?」

 

 〈シックス〉の表情が瞬く間に怒りへ歪んだ。シエナが仕掛けた至極単純な心理戦へ見事に引っ掛かったためだった。一方、普段は表情に乏しい〈ファイブ〉が珍しく焦りの表情を浮かべている。キレた〈シックス〉が暴発しないかどうか気に揉んでいるのだ。こうなればもうシエナのペースだ。挑発で〈シックス〉を突き崩すことで、彼女は〈ファイブ〉の心理さえも掌握しはじめたのである。

 

「まぁ確かに、クーデターが終わるまでチョロチョロ逃げ回ってりゃお前らの勝ちは確定だもんなぁ。それが腰抜けでなくて何なんだ? 〈XD(イクス・デー)〉だか何だか知らねぇが——」

「あ? ちょっと待て。お前、何で〈XD(イクス・デー)〉のことを知っている?」

「〈シックス〉! 何も言うな! あいつの言葉に耳を貸しちゃ駄目だ!」

 

 〈シックス〉が問うと、寡黙であるはずの〈ファイブ〉が常ならぬ大声で叫んだ。両者の反応を確かめたシエナは、にやりと口の端を吊り上げる。その様子を見た〈ファイブ〉は更に苛立ちを深め、目蓋を閉じた。

 

「おいおい、〈XD(イクス・デー)〉ってワードに反応しちまうってことは、こっちにタネ明かししてるのと同じことだぜ? ははーん、さては馬鹿だろ、お前」

「馬鹿……? だ……と……? こ、こ、この野郎ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」

 

 わなわなと身体を震わせた〈シックス〉が馬鹿でかい声で叫んだ。その顔はもはや怒りで真っ赤に染まっている。〈ファイブ〉は既に〈シックス〉の制御を諦めつつあり、ゆらりと全身を脱力させ戦闘準備に入っていた。

 

「教えてやろうか? そいつはなぁ……絶対的な禁句なんだぜ? この〈シックス〉サマの前ではなぁーーーッ!!!」

 

 瞬足の踏み込みで〈シックス〉はシエナとの間合いを詰めにかかる。「こうなってしまっては仕方がない」といった具合に、〈ファイブ〉も彼女のあとに続いた。

 

「エリザベート様、ジュリア。掩護を頼む」

 

 シエナが言う。二人は決然とした表情で首肯した。戦いの火蓋がついに切って落とされたのだ。

 素手で構えを取った〈シックス〉がシエナの懐へ飛び込むや、両者の拳が交錯する。

 秘宗拳(ひそうけん)——その奥義のひとつ。〈擒拿術(きんだじゅつ)〉。ウェストミンスターの広場での戦いでナナを一撃で倒した技を、〈シックス〉はいきなり繰り出した。全身各所の経穴や関節のみを狙い澄ましたかのように連続で叩く早業だ。

 だがシエナはその打撃のすべてを見切り、捌き、いなしてゆく。〈シックス〉の打撃はシエナへ決して届かない。

 今度はシエナによる反撃がはじまる。〈裡門頂肘(りもんちょうちゅう)〉——踏み込みつつ、肘を下から突き上げるように放つ八極拳の技のひとつ。そして〈鉄山靠(てつざんこう)〉——背中による当て身で敵を吹き飛ばすを八極拳の技のひとつ。〈シックス〉の打撃をすべて捌ききったシエナは、これら二連撃をカウンターとして〈シックス〉へブチ当てた。

 

「眼には眼を、中国拳法には中国拳法を——ってな。んー、見よう見まねだったんだが、こんなもんか?」

 

 〈鉄山靠(てつざんこう)〉の構えを解きながらシエナは言う。彼方まで吹き飛ばされた〈シックス〉と入れ替わるようにして、大振りの剣を携えた〈ファイブ〉の一九〇センチを超える長身がシエナめがけ躍りかかった。それを迎え撃つのはエリザベートとジュリアだ。鉈(ナタ)のように振るわれたフルスイングの打ち下ろしを二人してガードし、弾き返す。〈ファイブ〉最大の武器は異様なまでのリーチの長さと規格外の腕力だ。攻撃を一発弾くだけでも凄まじい労力を消耗する。

 

「ぐっ……!」

「お嬢!」

 

 思わずガードの姿勢を崩したエリザベートに、〈ファイブ〉が更に剣を振りかぶりながら躍りかかる。間一髪でこれを防いだのはシエナだ。満を持して剣を抜いた彼女は、まるで鞭のように剣先をしならせ〈ファイブ〉の動きを牽制する。攻撃を先回りするようにして潰し、生じた隙へ潜り込むかのように反撃を加える。まさに〈先の先〉を制する動き。とんでもない反射速度がなせる技だ。

 気圧されて後退をはじめた〈ファイブ〉の腹部へ、シエナの全力蹴りがヒットする。そして吹き飛ばされた彼女と入れ替わるようにして襲い掛かってきたのは、傷だらけになった〈シックス〉だ。シエナとの実力差を認めたのか、もはや素手喧嘩さえ捨てた彼女は大振りのナイフを何本も両手の指の股に挟み、構えている。ナイフを投擲する腹づもりなのだ。

 

「喰らいやがれぇえええええええッ!」

 

 〈シックス〉の叫びとともに、突如シエナたちの目の前で真っ白な閃光が瞬いた。それと同時に視界が一時的に奪われる。激烈な光量を間近で浴びたからだ。凄まじい光を発する火薬玉か何かを、足元へ投擲されたのだと遅れて気づいた。

 

「させない——ッ!」

 

 奇襲さながらに飛び込んでくる〈シックス〉を迎撃するかのように、シエナとエリザベートの盾となって躍り出たジュリアが中空で〈シックス〉と交錯する。無論、視界は一時的に奪われたままだ。彼女は感覚と気配だけを頼りに〈シックス〉が奇襲をかけてくる方向を特定したのだ。

 

「何で動けんだよ……! お前……ッ!」

「あんな小細工など、通用しない!」

 

 放射状に投げられた合計八本のナイフの軌道さえもすべて読み切り、ジュリアはそれらの攻撃すべてを叩き落とした。その際、〈シックス〉へ痛烈な反撃を加えることも忘れない。めくるめくレイピアの連撃をまともに喰らった〈シックス〉が叫びとともに吹き飛ばされる。着地と同時に、ジュリアはようやく視界を取り戻した。

 

「っと、危ない危ない……。こりゃ久々に本気モード全力解放しないとやられちまうなぁ!」

 

 一時的な危機に瀕していつつ、シエナの声音は実に楽しげだ。

 

「よくやった。やっぱお前メチャクチャ強いな」

「当然です。あなたと血を分けた妹ですから……」

 

 照れたように顔を背けるジュリアに対し、ニカッとシエナは笑顔を浮かべる。嬉しくて仕方のないような笑みであった。

 

「さぁて! もう一段、ギア上げていきますか!」

 

 シエナとジュリア、二人が並んで剣を構える。ダメージが残るエリザベートの盾となるかのように居並ぶ姉妹の出で立ちは、まさに主君を守るメイドの鏡そのものだ。

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「舐めんじゃねぇぞ………アタシは花火(ハッパ)使いの〈シックス〉サマだ……、目にモノ見せてやんよ……!」

「〈シックス〉……突出しないで……連携しないとやられちゃう……!」

「来いよ〈ナンバーズ〉。本気出して勝負しようぜ」

「言われなくてもやってやらァ!」

 

 シエナの挑発に〈シックス〉が乗った。先に動いた〈シックス〉を〈ファイブ〉がカバーするかのような陣形で向かってくる。

 

「喰らえオラァアアアアアアアッ!」

 

 猛烈な閃光。そして爆風。爆弾使いたる〈シックス〉も本気だった。だがシエナとジュリアの剣が襲いくる炎と煙を真っ二つに叩き割った。爆煙に乗じて懐へ飛び込んできた〈ファイブ〉の強烈な一撃をシエナが弾き、ジュリアが追撃を加え、入れ替わるように襲い掛かってきた〈シックス〉の攻撃をシエナが防ぎ、そしてジュリアがまた追撃を加えた。完璧に息の合った連携だった。

 

「しゃらくせぇえええええええッ!」

 

 〈シックス〉の叫び。またしても猛烈な閃光。そして爆風。〈シックス〉による発破(ハッパ)攻撃だ。だが本気モード全開の姉妹には全くといっていいほど通用しない。ジュリアが突出し、長身の〈ファイブ〉との体格差をものともせず当て身を喰らわす。もはやそれだけで〈ファイブ〉の継戦能力を奪うには充分だった。

 

「王手(チェック・メイト)です」

 

 尻餅をつくように倒れた〈ファイブ〉の喉元へ、ジュリアはレイピアの先端を突きつけて言う。

 

「それともまだやりますか? これ以上の戦いに、意味などまるでありませんが」

 

 〈ファイブ〉は傷だらけの顔で嘆息し、そして首を横に振って応える——と、そのときだった。

 

「あらあら〈ファイブ〉ちゃん、諦めたらそこで試合終了ですよぉ? 私はそんな腑抜(ふぬ)けな子に育てた覚えはありませんけどぉ?」

 

 新手の声——シエナ、ジュリア、エリザベートが声の方へ視線を向ける。シエナたちがいる路地のすぐ直上、屋根の上からそれは聞こえた。

 

「はじめまして〈フォルセティ〉のシエナ・フィナンシェさん。私は〈クイーン〉。そこの〈ファイブ〉と〈シックス〉の教育係を務める者です。以後お見知りおきを……」

 

 炎の照り返しを孕んだ夜闇をバックに、長い金髪を風にたなびかせた碧眼のメイドがそこにはいた。漆黒の軍服のようなメイド服を着た〈ナンバーズ〉の一員だ。怯えたような表情を〈ファイブ〉はジュリアの眼前で覗かせている。相当な強者のオーラを、ジュリアは感じた。

 

「何をぼうっとしているのですか〈ファイブ〉、〈シックス〉! 撤収です! 作戦は〈プラン2〉に移行! 〈ジョーカー〉からの伝令ですよ!」

 

 〈クイーン〉は鋭い声を上げる。そして、シエナは不敵な笑みを浮かべて言った。

 

「このまま大人しく帰すとでも?」

 

 ~~~

 

 王都ロンドン北西部。王立博物館から一二〇メートル地点の屋根の上。長銃身のマスケット銃を背負う狙撃手の〈フォー〉が、双眼鏡を片手に決起兵と暴徒でごった返した街路の様子を見下ろしている。街のいたるところでものが燃やされ、夜だというのにあたりはオレンジ色の照り返しで驚くほど明るい。〈フォー〉はショートボブの銀髪にあしらわれた編み込みを指先でいじりながら、「街はひでぇ有様だな」と呟いた。傍らにいる〈スリー〉に向けた言葉だった。

 

「この街にもひとそれぞれの生活があった。それが一夜にして全部パァだ。どう思うよ」

 

 傍らの〈スリー〉は赤い髪をアップにまとめ直しながら、「そうだな」と呟く。〈ナイン〉に蹴られた鼻頭の手当て痕が、いまだ何とも痛々しい。彼女たち二人は群衆に混じって移動を続けるノフィーナ・デ・タルトを追跡していた。

 

「敢えて問いてぇ。私たちのやっていることは果たして正しいのか、正しくないのか」

「愚問だな。そんなの見ればわかるじゃないか。あたしらはこの局面で間違いなく悪役の一味だよ」

 

 燃える街を見下ろし〈スリー〉は言う。自嘲ともとれる笑みさえ、彼女には浮かぶ。

 

「もうひとつ問いてぇ。私たちはこんなことで本当に自由を手にできるのか、どうなのか」

「愚問だな。その結果手にした自由は何者かへの隷属だ。そのときの主が〈ハート〉になるのか〈ジョーカー〉になるのかは知らねぇが、むしろ〈ナンバーズ〉に属するいまこのときの方が、自由であるとさえ言えやしねぇか?」

「それ、言えてるな」

 

 そのとき、〈スリー〉の肩に一羽の大きなカラスが舞い降りた。〈ツー〉が伝令役として飼い慣らす、フリードリヒという名の伝書鳩ならぬ伝書カラスだ。

 

「カァ!」

 

 フリードリヒが啼いた。〈スリー〉はその背中を優しげな手つきで撫でてやる。フリードリヒの足には折りたたまれた紙が糸でしっかりと結ばれていた。〈ジョーカー〉からの伝令が届いたのだ。

 

「ありがとう、フリードリヒ」

 

 夜空に羽ばたくフリードリヒを見送ると〈スリー〉は伝令書の中身を検めた。すると大人びたその顔つきが、徐々に険しいものへと変わってゆく。

 

「これが〈ジョーカー〉の出した結論だとさ……」

 

 紙を受け取った〈フォー〉も、同じような反応を示した。

 

「〈プラン2〉への移行、か。〈ハート〉は私らを捨てたってわけだ」

 

 〈プラン2〉への移行。それは次のようなことを意味していた。つまり、王都ロンドンの完全な破壊の実行だ。都市の根幹をなす各種インフラへ回復不能なまでのダメージを与え、首都機能を陥落させる。〈プラン2〉の実行とはすなわち、テロ行為の実行と同義である。市民らの被害も相当数出ることだろう。

 その最終目標とは——王都ロンドンへの破壊工作成功の報せを手土産とした、大ドイツ帝国への〈ナンバーズ〉の政治的亡命である。

 

「ともかく、これであたしらは正真正銘の悪役だ」

「もとより正義の味方なんかじゃ全然ないがな」

 

 〈スリー〉の言葉に〈フォー〉は苦笑を返す。互いに顔を見合わせながら苦笑した。

 

「なぁ、この際だから思ったことを正直に言うぜ。こんな戦いは間違ってる——投降しよう。それがいま打てる、最善の手だ」

 

 〈スリー〉は赤髪を掻き上げながらそう言った。〈フォー〉が頷く。

 

「お前が正しいと思った道なら、私もついていくだけさ」

「行き着く先はどっちにしろ地獄であることにゃ変わらない。それでもいいのか?」

「構いやしない。お前と一緒なら、地獄でも楽しく過ごせそうだからな」

 

 〈フォー〉は〈スリー〉と拳を合わせる。二人は〈ナンバーズ〉から離反すべく、すぐさま行動を開始した。

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